《MUMEI》

もし、ここでイエスと返事をしたら。
また、お嬢様達のつまらない自慢話や、先程の如月先輩の話題になることは容易に想像出来る。
興味のない無駄話に大人しく付き合うなんて、考えただけでゾッとした。

私は視線を結菜に戻し、一度瞬く。それから微笑みを作って、「有り難いんだけど」と前置きしてから続けた。

「このあとレッスンしてから帰るから、ゴメンね」

誘いをはっきり断ると結菜は、「そっか」と簡単な様子で頷き、ニッコリ微笑む。

「瀬戸さん、真面目だよね。放課後レッスンなんて、誰もしてないのに」

「…真面目じゃないよ。私は頑張らなきゃ、みんなについていけないから」

私は伏し目がちに、ぼそぼそ答える。それは本当だった。このクラスに入ってからというもの、私は自分の音楽的センスが、他のひとと比べると劣っていることを痛感していた。

だから、私はひとより努力しなければならない。
母親の期待に応えたいから。

私は顔を上げて、結菜を見た。

「誘ってくれて、ありがとう」

そう言うと、結菜は屈託なく笑って、「気にしないで」と答える。

「それじゃ、レッスン頑張ってね」

「うん、ありがとう」

「いい夏休みを」

「松田さんもね」

ありきたりな会話を済ませると、結菜はさっさと友達の輪に戻り、楽しそうに笑いながら教室を出て行った。

結菜のキレイな笑い声が耳に残ったまま、適当にかばんの中を整理して、ケースに入ったバイオリンを手に私も教室を出た。



この学校には教室棟と特別教室棟の2つの校舎がある。教室棟は私達、芸術科生徒のほか、その他の学科の生徒達が、ホームルームや一般授業に使用する教室があり、特別教室棟には、書道棟、美術棟、そして音楽棟の3つに分かれていて、主に芸術科の生徒が使用するのだった。

音楽棟には、第一音楽室と第二音楽室がある。そこでは、普通に音楽の授業をするほかに、演奏会などの総合練習のため、大勢の生徒達が演奏出来るよう充分な広さがあった。
それはどこの学校でも同じだろう。
特殊なのは、ここから。

この棟には2つの音楽室のほかに、レッスンルームという個室が、全部で30戸ほど設置されている。目的は音楽コースの生徒達が、個人レッスンをするため。

4畳半ほどの小さな空間に、グランドピアノがひとつづつ。他の生徒に邪魔されないように、壁は防音壁で守られていて、さらにはきちんと鍵がかけられるようになっている。楽器のことを考えて、全室冷暖房完備で空調設備は抜群。一年中快適に過ごせるのだ。

ただ、見た目が牢獄を思わせるような、閉鎖的な造りなので、音楽コースの生徒達には不評だった。

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