《MUMEI》

まあ、考えてみれば、クラスのお嬢様や御曹司は、家に自分だけのレッスンルームがあるから、わざわざ学校で−−しかも、こんな息苦しい空間で−−個人レッスンをする気にならないのだろう。

でも。
一般庶民の私にとって、これほど魅力的な施設は他になかった。
自宅には、気ままに練習する場所なんかない。一応、音楽教室を開いているが、近所の子供達に練習を邪魔されるのもよくある。実際、それが理由で受験前はかなり苦労した。

自由に、好きなだけバイオリンの練習が出来るなんて、夢のような話だ。

その、音楽棟のレッスンルームに、私は向かっていた。

しかし、レッスンルームを使うには、音楽コースの先生から、レッスンルームの鍵を借りなければならない。

私は準備室へ足を運ぶ。
第一音楽室と第二音楽室の間に、小さな準備室がある。私は扉をノックしてから開いた。
いつもこの時間には、数人の先生がいるのだが、今日は一人だけ、準備室のデスクに腰掛けていた。
少し不思議に思ったが、明日から夏休みだから、きっと色々と忙しいのだろうと独り決めた。
私は、中にいた先生に声をかけ、レッスンルームの鍵を借りたいと申し出る。鍵の貸出帳にサインしていると、鍵を差し出しながら、先生が言った。

「瀬戸は熱心だな。今日くらいは休めばいいのに」

「休めばだなんて…毎日練習しろって、口うるさく言ってるのは、先生じゃないですか」

冗談めかして返すと、先生は苦笑いした。そして鍵を手渡しながら、「終わったら一声かけて」と告げる。
一言二言、他愛のない会話を交わしたあと、私は準備室を出た。



誰もいない長い廊下を、ゆっくり歩く。持っているバイオリンケースが、やけに重く感じた。

反響する私の足音が、なぜか、物悲しい。

この広い世界で、独りぼっちになってしまったような、孤独感。
情けなくて、頼りなくて。

どうしてそんな風に思うのか、はっきりとは分からないけれど。



レッスンルームの鍵を解除して重いドアを開く。
黒塗りのグランドピアノが、部屋の面積のほとんどを占めていて、窮屈な感じを与えた。狭い部屋の床には、一面、絨毯が敷き詰められているから、空気が少し埃っぽい。それも、クラスメート達が嫌がっている理由の一つだ。
私は気に留めず、上履きを脱いでさっさと上がり込む。部屋の外に上履きを揃えて置き、ドアを閉めた。


まず、初めにしたことは、エアコンの電源を入れて、クーラーを起動させた。真夏ということもあり、締め切った室内は堪えられない程気温が上がっているからだ。
そのうちに、だんだん部屋の中が涼しくなってくる。
私は、かばんからレッスン用の譜面帳を取り出して、そのかばんを適当に床の上に投げ出すと、すぐに部屋の端に置きっぱなしになっている譜面台にのせた。

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