《MUMEI》 それからピアノの前へ行き、鍵盤の蓋を持ち上げ、中に敷かれている細長い、えんじ色のフェルトカバーを慣れた仕種で畳んで、それをピアノの譜面立てに、ぽん…と置いた。 そうして、ケースからバイオリンと弓を丁寧に出す。その木製の表面は、滑らかな輝きを放っていた。 私は、バイオリンを悠然と、構える。そして、弦を鳴らす前に、ピアノの鍵盤を、軽く押した。ポーンと軽やかな音色が、レッスンルームに響く。 そのピアノの音を、しっかりと耳に焼き付け、音程を記憶する。そのピアノの音に合わせるように、小さくハミングしながら、私は再び、バイオリンを構え直した。 弦を押さえる指に少し力を込め、そのピン!と張りつめた弦の上で、弓を一気に滑らせる。 透明感のある、バイオリンの音色が響く。記憶していたピアノの音程と、共鳴させてチューニングをする。2、3回音合わせをしたあと、肩慣らしに適当に音出しをしてから、譜面を開いて練習曲を弾いた。 独特の繊細な弦の音色。ひとの心を惹きつけてやまない、不思議な旋律。 ちっぽけな空間の中で、自分の音色に酔いしれながら、私はレッスンに没頭した。 どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。 あまりにレッスンに入れ込み過ぎて、私は時間を忘れていた。腕時計を見ると、14時を過ぎたところだった。 ホームルームが終わったのが12時過ぎだったから、だいたい2時間ほど、レッスンルームに篭っていたことになる。 お昼も食べてないし、何より喉が渇いて仕方ない。 私はバイオリンをケースに一旦しまい、かばんから財布を取り出して、部屋を出た。 音楽棟からのびている、渡り廊下を歩いて教室棟へ向かう。レッスンルームの外は、気温がかなり高くなっていて、酷く蒸し暑かった。額から滲み出る汗を拭きながら、一人、廊下を歩く。 他の生徒とすれ違うことは、なかった。みんなさっさと帰ってしまったのだろう。 無理もない。明日からは夏休みなのだ。 待ちに待った夏のバカンス。 誰もが楽しみにしている長期休暇だというのに、この鬱屈とした学校に居残る者なんか、いない。 私、一人を除いて。 レッスンルームでは飲食禁止なので、教室棟にあるラウンジの自販機で、とりあえず飲み物を買おうと思ったのだ。 お腹も相当減っていたが、今日は終業式のため、離れにある学食や購買は開いていない。だからジュースでも飲んで空腹を紛らわせれば、と考えついたのだった。 前へ |次へ |
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