《MUMEI》 レッスンルームに戻り、私は自分のバイオリンを手にとり、構えた。帰るつもりだったが、その前に、一曲だけ、弾こうと思ったのだ。 頭の中に、旋律を思い浮かべ、集中するために、ゆっくり目を閉じた。深く息を吸い込み、止める。 一拍置いて、息を吐き出すのと同時に、勢いよく弓を引いた。 緩やかに、柔らかく音を奏でる。 その、紡ぎ出したメロディーは、私が大好きな曲。 『カントリーロード』 小さい頃に見た、アニメ映画の中で、主人公が思いを寄せる男の子が、バイオリンでこの曲を引いた。私はその音に惹きつけられた。 軽やかなメロディーに合わせて、主人公の少女が歌い出す。いつの間にか他のひと達もそれぞれの楽器を奏で、ちょっとしたアンサンブルになった。 映画を見てから、母に内緒でこっそり『カントリーロード』の練習をした。 母はポップスを嫌っていた。バイオリニストになるには、ポップスは必要ないと、いつも言われていた。 それまでは、母の言いなりで、堅苦しいクラシックばかりに傾倒していたが、どうしても『カントリーロード』を習得したくて、母が外出している間に、一人で練習していた。 練習の甲斐あって、今となってはそらで引けるようにまで、『カントリーロード』を習得出来た。 映画の中で楽しそうに演奏する、彼等の仲間になりたかった。 いつか、私にも陽気な音楽仲間が現れた時、あんなふうにセッション出来る日を夢見ながら。 弾き終えると、私はため息をついた。 しんと静まり返った室内で、クーラーのモーター音だけが響く。 なぜか、虚しかった。 あの映画の楽しげなシーンとは真逆の、言いようのない孤独感が私を襲ったからだ。 同じ曲なのに。 同じアレンジなのに。 悲しかった。私は独りだった。 いつまでたっても、私の前に、『陽気な音楽仲間』が現れることはなかった。 …帰ろう。 力無く、バイオリンを片付け始めようと身を屈めた、その時だった。 レッスンルームの、金属製の扉が、勢いよく開かれたのは−−−。 突然のことに、私は驚いて動きを止めてしまった。 制服を着た背の高い男子生徒が、扉を開いて私を見ていた。走ってきたのだろう。その呼吸は荒く、肩を上下させていた。 数秒間、私と彼はお互いの目を見つめ合った。 驚きのあと、私を何とも言えない恐怖が、じわじわと襲ってきた。 一体だれ? 何しにやって来たの? それより、どうやって部屋の鍵を開けたの…? そこまで考えて、気づく。 ラウンジから戻ったあと、鍵をかけた覚えがない。うっかり忘れていた。 前へ |次へ |
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