《MUMEI》

ドアの前で立ち尽くしていた彼は、何かに気づいたように廊下の奥の方を一度見遣って、「やべぇ!」と漏らし、舌打ちした。
そして、再び私を見る。

「ちょっとお邪魔します!」

私が返事するより早く、彼は上履きを脱ぎ、それを両手で持って、レッスンルームの中に入った。そして、慌ただしく鍵をかける。
依然戸惑っている私に、「匿って!」と囁くと、グランドピアノの奥に身を潜めた。しかし、身体が大きいので、少しシャツが見えてしまっている。

匿って?
どういうこと?

訳が分からず、私が眉をひそめていると、じきにドアがノックされた。弾かれたように、私はドアを見る。
外にいるひとは、ひたすらノックをし続けていた。
困惑した私は、ピアノの奥でうずくまっている彼を見た。彼は私の顔を見て、「よろしく」と小さな声で言った。

よろしくって言われても…。

その間もノックは止まない。仕方なく私は立ち上がり、ドアの鍵を開けて、ゆっくりと扉を少し開く。

ドアの前には、私の担任が立っていた。彼は音楽コースの副主任で、よく音楽棟をうろうろしているのだ。
担任は、慌てた様子でいきなり言った。

「レッスン中、すまないね」

私は小さく「いいえ」と答えると、担任はすぐに尋ねた。

「男子生徒を見なかったか?こっちに行くところを見かけたんだが…」

その台詞に、一瞬身体が引き攣る。

はい。見ました。今、私の後ろのピアノに隠れています。

心の中で呟いた。けれど彼は「匿って」と私に頼んだので、少し戸惑い、俯く。

何と答えよう…正直に言った方がいいのかな。

思案している間中、背中に彼の視線を痛いほど浴びていた。

ここで担任にばらしたら、あとが怖い気がする…。

私は意を決して、担任の顔を正面から見据えて、答えた。

「いいえ、気づきませんでしたけど」

担任は肩を落として、「そうか…」と呟いた。私はさらに続ける。

「何かあったんですか?」

問い掛けに担任は首を振り、「何でもないんだ」と微笑む。

「それにしても、瀬戸は偉いな。今日も個人レッスンしてるなんて」

「日課ですからね。夏休みも通おうと思ってます。ウチ、練習場所ないから」

担任は嬉しそうに笑うと、「邪魔して悪かったな」と一言詫びて、扉を閉めた。
私は扉に耳を当てて、担任の足音を聞く。それは、ゆっくりと遠ざかり、そのうち全く聞こえなくなった。

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