《MUMEI》

少し間を置いてから、彼が部屋の中を見渡して、言った。

「メトロノーム、使ってないの?」

突然話が変わったので、私は眉をひそめる。メトロノーム。演奏の練習用に使用する、正確な拍を取るための道具だ。
彼は気に留めず、私の顔を見た。真剣な目をしていた。

「無いと不便じゃないの?個人練習だと特に」

私はムッとしながら答えた。

「別に、無くても音は出せます」

今までだってメトロノーム無しで練習してきたのだ。見ず知らずのひとから自分の練習方について、とやかく口を出して欲しくなかった。イライラしたのでつい、キツイ口調で言うと、彼は表情を険しくして、厳しい声で、はっきりと、言った。

「ダメだよ」

重い響きを持った言葉だった。私は思わず返す言葉を無くした。彼は続ける。

「そんな練習、意味がない。リズムが分からないなら、それは音楽じゃない。ただの騒音」

彼は淡々と厳しい言葉を口にした。それを聞き、だんだんと怒りが込み上げてくる。

ただの騒音?
なぜそこまで言われなければならないのか、全く理解出来なかった。

食ってかかろうとした時、先に彼が言った。

「さっき、弾いてた曲」

私は「え?」と聞き返す。
さっきの曲とは、『カントリーロード』のことだろうか。
彼はグランドピアノの天板に頬杖をついた。そしてぼんやりとした視線を私のバイオリンに投げ掛けながら、続ける。

「途中テンポが乱れてた。完全に先走ってたよ。ちゃんと音出てるのに、勿体ない」

私は黙り込む。そうなのだ。私には連符や少しテンポが速くなると、なぜか先走って音を出してしまう癖があった。
彼はさらに言った。

「自分の中で、拍を取り切れてない証拠だよ。そういうこそメトロノームを使って、遅いテンポから、正確に音を刻む練習をするんだ。それが完璧に出来たら、だんだんテンポを早くして練習する…そのうち自然とコケないで弾けるようになるよ」

私は、眉をひそめる。
これは、何?アドバイスのつもりなのだろうか…。

彼はピアノから身体を離して、鍵盤の方へ回り込むと、ピアノの椅子に腰掛けた。それからおもむろに鍵盤の上に手を置き、優しいタッチで適当に音階を奏でる。練習を始める前に行う指慣らしだ。私もピアノを弾く前には、必ずすることだった。

何を始めるのだろう。

ぼんやりピアノに向き合っている、彼の姿を眺めた。彼は一度手を止め、鍵盤を見つめたまま、身じろきしなかった。まるで何かに集中しているように。
そして、数秒の後、突然力強く鍵盤を鳴らす。

彼の指先から奏で出された、その曲に私はハッとする。

『カントリーロード』の前奏だ!

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