《MUMEI》

ピアノを弾きながら、彼は私にチラリと目配せをする。その目は、『バイオリンを構えろ』と指示していた。

私とセッションする、つもりなのだ。

でも、と思い立つ。

「…メトロノームは?」

私は彼に尋ねた。彼がさっき、自分で必要だと言い放ったばかりだ。
しかし、彼は私を見ることなく、素っ気ない声で、「必要ない」と言った。
私が眉をひそめると、彼は鍵盤を叩く指の動きを止めず続けた。

「俺、人間メトロノームって呼ばれてるの。どうでもいいから、早く準備して」

彼の言葉に私は戸惑いながらも、何かに操られたように、しまいかけたバイオリンを手に持ち、そして構えた。ピアノの伴奏は、正確なリズムを刻んでいる。


こんなに繊細にピアノを奏でられるひとがこの学校にいたなんて…。


メロディーラインに入る直前、彼は器用にも片手を鍵盤から離し、指揮を取り始めた。私はピアノの旋律と、彼の指先に集中し、弓を持つ手に力を込めた。

そして、勢いよく、ボウイングをする。

彼のピアノの伴奏に折り重なるように、私のバイオリンの主旋律が室内に響く。

陽気な『カントリーロード』を奏でながら、私は驚いていた。ビックリするほど弾きやすい。リズムがしっかり感じ取れる。苦手な連符もコケることなく熟すことが出来た。

だんだん彼は乗ってきたようで、伴奏にアドリブを入れはじめる。私も彼に合わせるように、即興でメロディーをアレンジした。私のアドリブを聞いて彼も俄然やる気になったのか、シロウトには困難なリズムで鍵盤を叩く。その表情は嬉々としていた。つい、私の頬も緩む。

これだ、と思った。
小さい頃から夢見ていた、『カントリーロード』のセッション。
それが今、現実のものとなった。

楽しい。
音楽が、楽しい。素直にそう思った。
今まで、私は、音楽を楽しいと感じたことがあっただろうか。


いつも、母の言いなりだった。
ピアノを始めたのも、バイオリンを始めたのも、この学校に入学したのも。
将来、バイオリニストになるため。

でもそれは、私の夢じゃなかった。

全ては、母のため。彼女が叶えられなかった夢を、私が背負った。それだけ。

毎日の個人レッスンが、義務みたいだった。
味気なくて、つまらなくて。
でも頑張らなきゃいけなくて。

それが、今、心から楽しいと思えるのは、一体なぜなのだろう。


曲が終盤に差し掛かると、彼のテンションも最高潮になり、さらに激しくピアノを弾いた。私も置いていかれないように、必死にボウイングをする。

すごい。一度もリズムから音を外していない。

それよりも、このひとは、一体何者?

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