《MUMEI》

……どれくらいの数の錠剤を飲み込んだのだろう 最後の一塊を手のひらから一気に流し込むと、もう受け付けたくはない水を無理やり喉に押し込みながらゆっくり立ち上がり…おそらく最後になるであろう食器の後片付けをはじめた 。 


すでに涙は渇き切りただの無味な塩となって目尻に張りついていた
宏介はソファーに深々と座り込むと遺書と破産手続きの入った二通の封筒をテーブルの上に揃えるようにきちんと置き直し…ゆっくりとタバコ一本取り出して火をつけた


もうすっかり死への恐怖心はなくなっていた 
ただ…本当にこれで…死ねるのだろうか……よもや…苦しむばかりで…口からは泡や涎を吐き続け…その苦しさのあまりから身体のあらゆる命の細胞たちが必死の抵抗を試み…涙ながらに救急車へ命乞いの電話をかけるのではなかろうか………そして…もし生き延びたなら……その後は…… 

そんな不安が頭を過りながらも宏介の漠然とした空虚な意識は次第に過去へと遡りはじめていた 


目を閉じると何故か今まで思い出したこともないような小さな事柄までもが、野を駆け巡る野生馬のように次々に浮かんでは消えていく…
「本当の走馬灯とはこの事を言うのだろうか…」 ハッとするような 幼い頃の小さな出来事…今まで気付きもしなかったような両親や兄弟たちの気持ちが手にとるように 伝わってくる 

…どれくらい時間が経過したのだろう…宏介はじっと目を閉じたまま生い立ちから…そして今この状況に及ぶまでの様々な出来事を、まるで墓場から死者でも掘り起こすかのように時代を追いながら思い巡らしていた… 


…両親に小さな手を引かれていく遊園地……楽しかった小学生の遠足の山道… 
緊張して眠れなかった運動会の前日… 

初恋の…胸をドキドキさせながらいつも眺めていた憧れの同級生……
無我夢中で頑張っていたクラブ活動……中庭のあるコンクリートの回路を走りまわっては友をからかいに行っていた校舎の屋上……夢中で集めていた切手…レコードのジャケット…汚れた学生服……徹夜しながらの受験勉強……そして恩師の顔 
初めてのキスをしたのは…だれだろう……大学に受かった時の両親の喜び 

初めての熱い恋愛…恋人の微笑む笑顔……喧嘩した車での一泊旅行……そして失恋……兄弟の結婚…同僚と汗を流したテニス ……いつも飲みに行っていた新町の夜…女たち…辛かった同僚との葛藤……新会社に向けて意気あがる自分の顔………裏切られた時の失意を浮かべる顔

そして妻……美沙子との出会い…………美沙子を最後に見たときの顔………… 
まるでキャンバスに描かれたモザイクのように浮かんでは消えていく……


そこまで思い出が蘇ってくると……宏介の意識は次第に薄明の霧の中を歩きだしていた………胸が異常に熱さを感じる…焼け付くような熱さだ …息づかいが次第に荒くなる……霧を抜け一人鏡の中の暗闇へと去っていく意識…… 
死が目の前に迫ってきているのを宏介はその微かな意識の中に感じた 

二度と思い出す事はないだらう…一人の人間の思い出が……燃え尽きた蝋燭のように…今・消えていこうとしていた……  。

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