《MUMEI》

私の胸の中、暖かい何かが生まれた。それはゆっくり込み上げてきて、頬に熱を与える。
気持ちがざわめく。嬉しいような。恥ずかしいような。

この気持ちは、なんだろう…。

戸惑いながら、私は怖ず怖ずと彼の、大きな手を握り返そうと、自分の右手を伸ばし−−−−。



しかし。

私の手が、彼の手に触れる、その前に。
彼は、「あ!」と、思い出したように声を上げた。

「せっかく瀬戸サンと知り合えてアレだけど、きっと今日で最後だなぁ」

独り言のように呟きながら、先輩は手を引っ込める。行き先を失った私の手は、虚空に残されたままだった。

今日で、最後?

どういう意味だろうか。

私が何か尋ねる前に、先輩が先に言った。

「実は、俺、今日で学校、辞めたんだよね」

一瞬、思考が停止する。
辞めた。今日で。学校を辞めた。
そこで、クラスメートの言葉を思い出す。

如月先輩が、退学届を提出したのだと。

私は、さっと熱が引いていくような感覚に陥った。先ほど生まれた気持ちが、小さく萎んでいく。

先輩が学校を辞める。
辞める。今日で最後。

ぐるぐると頭の中を巡る言葉に、目眩がした。

「どうしてですか…?先輩、才能あるのに…」

私が呻くように尋ねると、先輩はうんざりしたようにため息をつく。そして、つまらなさそうに、ぽつんと言った。

「みんな、同じこと言うんだな」

彼は黙り込んでいる私の目を見つめて、肩を竦めた。それから「どうしてって、言われてもね〜」と、ぼやく。

「俺はね、別に誰かのために音楽やってるわけじゃないの。才能がどうとか、将来がなんだとか、周りが勝手に盛り上がって言ってるだけであって、そこに俺の意思は無いんだよ」

彼の言っている意味は、分かる。でも、これだけのセンスがあれば、周りの人間が期待するのも当然だ。
普通のひとなら、この世界で生きていくのは困難だろう。しかし、彼ほどの才能があれば、音楽一筋で生活していける筈なのに。
先輩は固い表情を浮かべ、腕を組んで続ける。

「確かに音楽は楽しい。でも、それより夢中になれるモノを見つけただけ。ここにいたら、それだけに集中出来ないから」

夢中に、なれるモノ。
一体、それは…。

思いあぐねていると、先輩は微笑んだ。
未練など微塵にも感じさせない、さっぱりとした笑顔だった。

「瀬戸サンは、夢があるんだろ?頑張りなよ、応援してるから」

私は一度、瞬いた。夢。どうだろうか。
私の夢って、何だろう。

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