《MUMEI》 何も答えない私を無視して、先輩は椅子から立ち上がり上履きを拾うと、ドアの前へ移動しながら「じゃあね!」とにこやかに手を振った。 「邪魔してゴメンね〜!有名人になったら、コンサートに招待してよ」 そう言い残し、彼は躊躇いなくドアを開け、レッスンルームを出て行った。 重々しくドアが閉まる。ガチャン…という音のあと、先輩の軽やかな足音が、だんだん遠ざかっていった。 一人残された私は、しんと静まり返った静寂の中で、ぼんやりと閉ざされた扉を見つめた。頭の中で、如月先輩の背中を思い浮かべながら。 風のようなひとだ、と思った。 突然現れて、色んなモノを巻き込み、けれど、次の瞬間にはもう、ここにはいない。 あてもなく、流れていく。 あとには何も残さず。 彼の、気の赴くままに。 心の中にぽっかりと浮かんできた喪失感に似た気持ちを、一人、抱きしめながら、私はバイオリンをケースにしまい込んだ−−−。 家に帰ってから、後悔した。 先輩の連絡先くらい、聞いておけば良かったと。 先輩は、私のことを、少なくとも音楽仲間としては、気に入ってくれた筈だ。 聞いたら、すんなり教えてくれたかもしれないのに。 彼の、名前を尋ねた時のように。 迂闊さを責めながら、自分の部屋に閉じこもっていると、母が顔を覗かせた。 私が帰ってきた時、母は子供にピアノレッスンをしていたから、声をかけずにいた。きっと子供が帰ったので、私の顔を見に来たのだろう。 母は、私の部屋に入ると、まず、言った。 「成績、どうだった?」 私は一度、瞬く。それから、通知表は明日以降自宅に郵送されると、簡単に説明した。 母は「そう」と返事をすると、「このあと他の子のレッスンがあるから、ご飯、適当に食べてね」と言い、私の返事を待たずに、さっさと部屋を出て行った。 あっさりしたものだ。 母は、私の成績にしか興味がないのだろう。 暗い気持ちになりながら、ベッドの上に横になった。 そして、考える。 私の夢。 何も思い浮かばない。 将来は、バイオリニストに。 それは母の夢であって、私の目指すものではない。 「私の、夢か…」 呟きながら、私は如月先輩の、あの爽やかな笑顔を思い出し、瞼をゆっくり閉じた。 もう一度、先輩に会えますように。 心の中で、そう、祈った。 次の日。 今日から夏休みだというのに、私は制服姿で、学校から程近い大きなデパートに来ていた。 今日の予定はもちろん、学校のレッスンルームで個人練習。けれど、その前に用事があって、ここに立ち寄った。 前へ |次へ |
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