《MUMEI》

私は退くに退けず、しぶしぶ腕を差し出した。歩さんは躊躇いなく、フレグランスを私の手首に吹きかけた。

ふんわりと包み込むような、爽やかな香りが立ち込める。

「気分を切り替えてくれるシャキッとした香りだから、リフレッシュにもなるし癖も無いから使いやすいの」

私は自分の手首を顔に近づけてクンクンと匂いを嗅いだ。
何故か心が穏やかになる、気がした。

「ホントだ。優しい香り…」

素直にコメントして、ずっとクンクンしてると、歩さんは可笑しそうに笑い「イヌみたい」と華やいだ声で言った。私はちょっと恥ずかしくなり、匂いを嗅ぐのを止める。
歩さんは続けて言った。

「時間が経つとね、檜の香りに変化していくのよ。木の香りは温かみがあって、安らげるから、モヤモヤした時、使うといいわ」

檜の香り、と言われてもピンと来なかったが、とりあえずナチュラルな感じなのだろうと一人でイメージする。
歩さんはボトルを箱にしまいながら、独り言のように言った。

「香りやコンセプトもそうだけど、何よりもこのネーミングが、菜々子ちゃんにピッタリだと思って選んだの」

ネーミング。
《アミアイレ》のことを言っているのだろうか。
私は瞬き、「どういう意味なの?」と尋ねると、歩さんは微笑んだ。

「ナイショ」

「は?」

私は眉をひそめてしまう。そこまで言っておいて「ナイショ」は無いだろう。
私の非難の目を見て、歩さんは茶目っ気たっぷりに笑い、「そのうち教えてあげる」と言った。

「今はダメ。その時が来たら、教えてあげるわ。とっても素敵な意味だから」

思わせ振りにそう言って、彼女は箱を袋に丁寧な仕種でしまうと、それを私に手渡し、「練習頑張ってね」と励ましの言葉をかけた。
袋を受け取った私はお礼を述べると、何だか納得いかない気持ちを胸にしまい、カウンターから立ち去った。




その子と初めて会ったのは、デパートを出て学校に向かう途中にある公園だった。

彼女を見かけた時から、変だな、と思ったのだ。

歳は、私と同じか、それより下か。栗色の長い髪は緩くウェーブがかかっていて、それは彼女の白い肌によく似合っていた。

ぶかぶかのグレーのパーカーをワンピース風に着て、黒いレギンスと靴はコンバースのピンク色のスニーカーというラフな格好だった。

出で立ちは、どこにでもいるような、普通の子。

それでも「変だな」、と思ったのは、彼女が公園内の歩道の真ん中で、しゃがみ込みうずくまっていたからだ。

具合でも悪くしたのかな。

直感的にそう思い、それから悩んだ。
助けに行った方がいいのかもしれない。でも、知らないひとだし、声を掛けるのも少し気が引けた。

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