《MUMEI》

少しの沈黙のあと、突然、小百合さんは「着いた!」と叫び、前方を指差した。
彼女の細い指の、その先を辿って見ると、そこには古いアパートが一棟、建っていた。

「あれが私の家!」

小百合さんははしゃいだ声で言うと、私の顔を見た。

「送ってくれて、ありがとう」

素直に感謝の言葉を述べる彼女に、私は首を振る。

「それじゃ、私、行くね」

そう言うと、小百合さんは微笑んで「ホントに、ホントに、ありがとう!」と、頭を下げた。その様子が何だか可愛くて、私は笑い、「お大事に!」と元気よく答えて、身を翻し、歩き出した。

少し、進んでから、気になって振り返ると、小百合さんはまだアパートの階段の横で私のことを見つめていた。私と目が合うと、また笑う。
私は彼女に軽く手を振り、それから正面を向き直って、駆け出した。

遠くから、小百合さんの「ありがとぉ!」と叫ぶ声が、聞こえた。




愛くるしく整った顔立ち。くるくると目まぐるしく変化する表情。鈴の音のような軽やかな声。
そして、あの純真無垢な笑顔−−−。

小百合さんの全てが、私の脳裏に焼き付いて消え去ることはなかった。
私に無いものを持っている、彼女。

不思議な魅力を秘めた、女の子…。

何故か、胸がざわついた。
私は瞼に浮かんだ幻影を振り切るように、腕を大きく振って走った。




学校で個人レッスンを終えてから、家に帰ると、母が物凄い形相で私を出迎えた。

何事かと思ったら、学校から通知表が届いたらしい。

開口一番、母は金切り声で言った。

「どうして、こんなに技術点が低いのよ!!」

私のバイオリンのテクニックの点が、母が理想としていたより、低かったようだ。

私は、何も答えず俯いた。母は続ける。

「毎日、練習してるのよね?それなのに、出来てないっていうのはどういうこと!?」

ここで下手に反論すると、あとが面倒になる。私はひたすら黙り込んだ。母は呆れたようにため息をつき、最後に、こう言った。

「お願いだから、お母さんを失望させないで」


如月先輩の言葉が、頭をよぎった。


−−俺はね、別に誰かのために音楽やってるわけじゃないの。


私は、何のために、音楽をやっているのだろう…。






小百合さんと出会ってから、数日が経った、ある日。
いつものように、学校のレッスンルームでバイオリンの練習をしていると。
突然、ドアがノックされた。

誰だろう。先生が巡回しているのだろうか。

不思議に思い、私はピアノの椅子の上にバイオリンを置き、ドアの鍵を開け、少しだけ開いた。

そして眉をひそめる。


そこにいたのは、私服姿の見知らぬ男の子だった。

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