《MUMEI》
『コウちゃん』のこと
私は彼女の隣からパックを覗き込みながら、「どっちもスキだよ」と答えると、小百合さんは首を捻り、再びパックに目を遣りながら、少し考え込んだ。それから、また私の顔を見て鮮やかに笑う。

「じゃあ、牛肉にする!」

小百合さんは牛肉のパックをカゴに入れて、「今日はパーティーだから奮発しちゃおう!」と嬉しそうに呟いた。その様子がおかしくて、つい吹き出してしまう。
小百合さんは何故私が笑っているのか分からないようで、首を傾げていた。しかし、すぐ隣の青果売場を指差す。

「見て!!ほうれん草、安い!買っちゃおうかな!」

興奮した様子で叫ぶと、足早にそちらへ行ってしまう。私も置いていかれないように、慌てて彼女の後ろについて行った。

狭い店内を何度もぐるぐる回って、何とか買い物を済ませた。
外に出てから、小百合さんは両手にスーパーのビニールの袋を持って、「いっぱいお買い物しちゃった〜!」と満足そうに言った。私は穏やかに微笑み返す。
小百合さんは私の顔を見て、「今、何時か分かる?」と尋ねてきたので、私は腕時計を見た。

「もうすぐ6時…だね」

そう答えると、彼女は「ウソ!?」と素っ頓狂な声を上げた。

「たいへん!!コウちゃん、帰って来ちゃう!」

一人で慌てて、「急がなきゃ!」とスタスタ歩き出した。私も彼女のあとを追う。

それにしても。

気になる事があった。

「『コウちゃん』って、誰?」

彼女の華奢な背中に問い掛けた。
初めて会った時も、小百合さんは『コウちゃん』と言っていた。しかも、私と同じ、音楽コースだということも。
彼女の言い方から、たぶん一緒に住んでいる家族−−兄弟とか−−なのだろうと勝手に想像していた。
けれど知る限りでは、音楽コースに『波多野』という苗字のひとはいなかった。

ずっと、誰の事を言っているのか、気にはなっていたのだ。

私の質問に小百合さんは振り返り、「あれ?」と不思議そうな声を上げた。

「話してなかったっけ?」

「知らないよ、『コウちゃん』なんて」

即答すると、彼女は首を捻る。

「でも、コウちゃん、ナナちゃんのこと知ってたよ」

その答えに、今度は私が首を捻った。

『コウちゃん』が私を、知っていた?

小百合さんは続ける。

「だってコウちゃんが教えてくれたんだもん。ナナちゃんが、夏休みも学校に通うんだって言ってたよって」

ますます混乱してきた。
夏休み中学校に通うなんて、クラスの子達だって知らない筈だ。

『コウちゃん』に覚えがないと答えると、小百合さんは「そっかぁ〜」と間の抜けた相槌を打った。

「じゃあ、今日会えるよ。パーティーに間に合うように帰るって言ってたから」

そう言って、彼女はニッコリ笑う。

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