《MUMEI》

そういえば、佐野先輩は『リョータ』と名乗っていたような気がするし、それに小百合さんとは『友達』だと言ってたっけ。

佐野先輩は私の態度が気に食わなかったのか、腕を組んでムクれた。

「なに?俺、来たらダメなの?」

私は手にしていた鍋の蓋を、佐野先輩に向けてサッと盾のようにして構え、慌てて首を振った。

「そういう意味じゃないんですけど」

「じゃあ、なにさ?」

返事に困っていると、玄関のドアノブがゆっくり動いた。ガチャリという音に、佐野先輩は振り返りながら、「おっせーよ、コウスケ!」とドアに向かって声を上げた。


コウスケ?


ドアの方を、見る。

扉はゆっくりと開かれて、その、外側に、『そのひと』は、いた。

私は、目を見開く。

…どうして?

思わず、呟いてしまいそうだった。
まさか。
このひとが、『コウちゃん』だったなんて…。

その横で、小百合さんが嬉しそうに笑って、『そのひと』に、言った。


「おかえり、コウちゃん!!」


部屋に入ってきた、『そのひと』は、小百合さんに、優しく微笑みかけながら、答えた。

「ただいま」

優しい声。
つい、聞き惚れてしまう。

その抑揚から溢れ出す、彼女への、想いの深さに、私は力が抜けていった。

持っていた鍋の蓋が、床に落ち、けたたましい金属音が、響く。

一斉に、みんなの視線が、私に集中する。
一番近くにいた佐野先輩が、「なにやってんの〜?」と呆れたように言いながら、蓋を拾うため、私の足元にしゃがみ込んだ。

私は、動けなかった。
『そのひと』から、目が離せなかった。

私の視界には、不思議そうに私の顔を見つめる小百合さんと、そこで初めて、私の存在に気づいたというような表情を浮かべた、『そのひと』が、いた。

『そのひと』は、じっと私の目を見つめ返し、そしてニッコリと笑った。

ああ、そうだ。
レッスンルームで、初めて会った日、その笑顔を私に見せて言ってくれた、言葉。

−−自分の生まれとか、環境の上に胡座かいて努力しようとしない他のヤツ等、出し抜いてやんなよ…。

その言葉を糧に、努力していこうと、思った。
胸に秘めた、想いに、気づかないフリをして。


私は『そのひと』に向かって、乾いた唇で、小さく、小さく呟いた。


「…如月せん、ぱい…」


私が名前を呼んだことに、佐野先輩が気づいたようで、「ナナちゃん?」と私に呼びかけた。しかし、私は佐野先輩を見ることなく、ただ、目の前の、如月先輩だけを、見つめていた。

如月先輩は、あの、伸びやかな声で、答えた。

「久しぶり、瀬戸サン」





小百合さんの幸せそうな顔が。
如月先輩の優しい眼差しが。

ぐるぐる…ぐるぐる。

歪んで、滲んで、霞んで−−−。

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