《MUMEI》

不意に、小百合さんと如月先輩の仲睦まじい姿を思い出した。
二人のことを、考えれば考えるほど、胸の奥の方が疼き、モヤモヤした。何だろう。ムカついてたまらない。
この気持ちは、なに…?

その感情が煩わしく、私は考えるのは止めようと、思い切り蛇口をひねり、流れてきた水で乱暴に手を洗った。
水道を止めてから、ハンカチを持ってくるのを忘れたことに気づき、周りにタオルは無いかと、キョロキョロすると。

洗面台の脇の隙間に、小さいごみ箱があることに気づいた。何気なく、その中を覗くと、体温計のようなものが紙屑に埋もれているのが見えた。
間違って捨ててしまったのだろうか。
私はごみ箱から、それを拾い上げる。そしてそこで、それが体温計では無いことが分かった。

形はよく似ているものの、温度を表示する文字盤は無く、その代わりに、小さい円形の、リトマス試験紙のようなものがあった。その紙は色が変化している…。

私は、愕然とした。

これは。
そんな…まさか。

頭に浮かんできた考えを、必死に否定しながら、再びごみ箱の中に目を遣り、そして目を見開いた。

紙屑に埋もれた、細長い、箱が捨ててある。そのパッケージの表に『妊娠検査』と書いてあるのが、見えた。

遠くから、小百合さんの、柔らかい声が蘇ってくる。
彼女は、両手をお腹に添えて、こう言った。

−−病気じゃ、ない…。

病気じゃない。

決定的だった。
疑う余地も、ない。

それが、何を意味しているのか、私にだって、分かってしまった。

小百合さんは、妊娠している。
そして、その相手は。

自然に手が震え出した。

如月先輩が、小百合さんと結婚の約束をした理由。
全てが、きれいに、繋がった…。


ドアの向こうから、みんなの明るい笑い声が聞こえてきた−−−。


こんなの、おかしい。
普通じゃ、ない。


黒い、真っ黒な感情が、私を飲み込み、押し潰す…。
私は使用済の妊娠検査薬を、勢いよくごみ箱に投げ捨てた。


天国から地獄とは、まさにこのこと−−−。

私は、ドアノブをゆっくり回し、開いた。




トイレから出て来た私に、小百合さんがドーナツ屋の箱を掲げて、微笑みながら声をかける。

「ナナちゃん、みんなでドーナツ食べよう?」

すると佐野先輩が、「俺のおごり」と付け足した。
しかし、私はそれどころではない。
小百合さんの顔と、如月先輩の顔を交互に見つめ、再び、洗面台で見つけた検査薬のことを思い出す。

激しい嫌悪感が、胸に込み上げる。

私は彼等から顔を背け、「もう帰る」と短く告げると、壁際に置いてあったかばんとバイオリンケースを引ったくり、バタバタと玄関に向かい、慌ただしく靴を履いた。

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