《MUMEI》

先輩は、遠くを見つめるような目をしていた。

「とにかく落ち着かせて、話聞いたら、あいつの家、ちょっと複雑らしくて」

そう言ってため息をついた。

「母子家庭で育って、そんで、あいつが中学にあがってから、母親が再婚したらしいんだけど」

如月先輩はゆっくり俯き、言いづらそうに、呟いた。

「新しい父親が、母親が仕事で留守のとき、あいつに変なこと、するって」

「変な、こと?」

私は尋ねた。
『変なこと』って、一体何なのだろうか。
先輩は、苦しそうに、続けた。

「レイプ、されてたんだよ。その父親に」

それは、考えてもいない台詞だった。
私は、後頭部を殴られたような衝撃を受けた。

レイプ?
あの、小百合さんが…?

だって、あの子はとても幸せそうに笑ってて。
そんな、過去を微塵にも感じさせないような、美しい笑顔で。

頭の中を、汚らわしい想像が駆け巡る。

中年の男に組み敷かれている、幼い少女。
泣き叫んでも、その苦しみは届かない。
彼女の、母親にさえも。

「そんな…」

私は言葉を無くす。先輩はため息をついて、首を振った。

「ほっとけなくて、ウチに連れて帰った。気づいたら、同棲してた。最初は、同情だったけど…」

そして、淡く微笑んだ。

「今は、あいつナシの生活は、考えられないな」

胸が、軋んだ。
ああ。
本当に、本当に、先輩は小百合さんのことが大切なんだ…。
そう、思い知らされた。

私は、俯いて「…でも」と呟く。

「夢を捨てる必要、あったのかな…?」

彼は期待されていた。
センスに恵まれ、あちこちの楽団や音大から声をかけられていた。
あのまま高校を卒業して、音楽を学んでいけば、きっと名のある音楽家になれただろうに。

私は顔を上げて先輩を見た。

「将来のこと投げ出して、後悔してないんですか?」

尋ねる声が、震えてしまった。
後悔、してない筈がない。
彼は小さい頃から、音楽を身近に感じて育ってきたのだ。それなりの夢や希望もあった筈だ…。
先輩は少し唸って、それから答えた。

「わからないな…」

分からない?
私は眉をひそめる。先輩は首を傾げた。

「将来のことなんか、はっきり言ってわからない…夢とか未来とか、あんまり遠すぎて、見えてこないんだよね」

ぽつりぽつりと話す先輩は、何だか大人びて見えて、その落ち着き払った雰囲気は、私の2コ上には思えなかった。

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