《MUMEI》

歩さんはケラケラ笑い転げた。

「すっごいよね〜!菜々子ちゃん、強くなったな〜って、おばさんには悪いけど、ちょっと感動したゃったりして〜」

ひとしきり笑ったあと、歩さんはデイスプレイ台から、香水瓶をひとつ取り上げ、私の目の前のカウンターに置いた。

淡いブルーの、アミアイレ。

私がぼうっとそれを見つめていると、歩さんは呟いた。

「まだ、教えてなかったよね?アミアイレの意味」

そういえば、そうだった。私は彼女の顔を見上げ、頷く。
歩さんは、朗らかに笑い、唄うように答えた。

「《自分らしく》」

え?

《自分らしく》って、この前、私が小百合さんに送ったエールと同じ…。

私は目を見開いた。歩さんは続ける。

「菜々子ちゃん、いつも音楽頑張ってるけど、ホントはあまりやりたくないんじゃないかなって、ずっと思ってたの。
人生は一度きりしかないんだし、菜々子ちゃんがやりたいことをやって欲しいなって、そう思って」

そこまで言われると、もう我慢出来なかった。私は人目をはばからず、泣いた。歩さんの暖かい手に撫でられながら、人前で泣いたのは初めてかもしれない、とぼんやり思った。

歩さんが優しい声で、「頑張れ…」と囁いたのが聞こえた気がした−−−。




長い夏休みの間は。
私は相変わらず、学校に通いつめていた。
いつものレッスンルームでバイオリンの練習。傍らには、如月先輩から貰ったメトロノーム。これを使うようになってから、何だかリズム感が良くなった気がする。

基礎練習を30分したあとは、曲の練習。新学期に入ったら音楽コースの定期演奏会や学校の文化祭、バイオリンコンクールなど、イベントが目白押しで、練習しなければならない曲が沢山あるのだ。

一曲弾き終わった時、ドアがノックされる。

相手は、もう、誰だか分かっている。

私はバイオリンを置いて、レッスンルームの扉を開くと。

「おつかれさま〜」

扉の前に立っていた佐野先輩が呑気な声で言った。その手にはコンビニの袋が握られている。

「今日の差し入れは、なに?」

ワクワクしながら尋ねると、彼は袋を大きく開いて、中が見えるようにしてくれた。

「ゼリーです。早くラウンジ行こ」

私は笑顔で頷き返し、レッスンルームから出て、佐野先輩の隣を歩いた。

あの夜以来、佐野先輩とは微妙な関係が続いている。はっきりと告白されたわけではないし、私の方も、それを問いただすことはしなかった。
それでも先輩は、ヒマさえあればレッスンルームに尋ねて来る。何かしら差し入れを持って。

先輩の傍の、この空気が優しくて、居心地がよくて、安心出来る。

それは、あの、如月先輩には、無かったもの。
彼の傍では、目が眩むほど眩しくて、胸がどきどきして、緊張してしまうばかりだった。

このままが、いい。

ずっと、続きますように。

佐野先輩の笑顔を見ながら、そう思った。

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