《MUMEI》 冒険天職。重い言葉だ。れおんは考えた。自分にとって、この仕事が本当に天職だろうか。 「お嬢はコンビニに何年おった?」 「3年です」 「昔から石の上にも三年寝太郎ゆうからな」 「言いません」 「でも接客の経験はそのまま生かせるよ」 「ホントですか?」 「わいが嘘ついたことあるか?」 「はい」 「おっと」賢吾は前のめりにこけそうになったが、戻った。「妻」 「はあ…」 ダジャレにもなっていない。れおんは力が抜けた。 「お嬢。政府の場合は全国民が対象やから、どうしても何兆単位になってしまう。しかし個人でやるなら目の前の一人を救うことに全力を挙げることができる。わいの夢はこういうクリニックが日本全国に広がって、社会から貧困の二字をなくすことや」 れおんは聞いた。 「でも、個人でも莫大な資金が必要ですよね?」 「そんなことない。人間独身の一人暮らしなら、年収500万円あれば、かなりリッチな生活が送れるよ」 れおんは即答した。 「年500万は夢ですね」 「良かった。年収500万じゃ生活できん言われたらどないしようかと思った」 「採用する前にクビですか?」れおんは明るく笑った。 「電気拷問や」 「セクハラですよ」 賢吾は真顔で語った。 「この夢のクリニックのオーナーはな。ベストセラー作家やけど、年収1億円や」 「1億?」れおんは目を丸くした。 「つまり、年間9500万円を社会に還元できる計算や」 「還元?」 「そうや。自分一人で大金を手にできたわけではないやろ。恩返しのつもりで金持ちが社会に財産の一部を還元すれば、どれだけ空気が変わるか。この発想がない」 賢吾は語るごとにエキサイトしてきた。 「テレビなんか見てて腹立つわあ。何がセレブや?」 賢吾の怒りの激しさに、れおんは戸惑った。 「いい腕時計してまんなあ、これ高かったんですよう、いくらでっか、400万です、わおーって八百長や」 賢吾の暴走は止まらない。 「きょうの衣装、アクセサリー入れると全部で1000万になります、どっひゃーん、凄いですねえってアホか。金の使い方を教えたくなるわ!」 れおんも、最近のメディアのあり方には疑問を抱いていただけに、賢吾の言葉は新鮮だった。 金持ちにひたすらスポットライトを当てて、庶民のやる気を奪っているような気がしていた。 「お嬢。長々と説明してしまったけどな。このクリニックの理念と目指すべき方向性を簡潔にまとめたものがこれや」 賢吾は小冊子をれおんに渡した。 「何だ、こういうのがあったんですか?」 小冊子をパラパラめくる。 「まあ、これをよく読んでな。じっくり考えてくれるか」 「はい」 れおんは小冊子を大事そうにしまった。賢吾は真剣な眼差しでれおんを見た。 「お嬢。もちろん決めるのはお嬢や。でもわいの気持ちは、頭下げてでも来てほしい。この通りや」 れおんは慌てた。 「ちょっと頭上げてくださいよう」 れおんは思わず賢吾の両肩を触った。 「ほかに面接はせん。採用もしない。お嬢一人でええ。ダメならアシスタントはいらんわ」 「それって凄いプレッシャー」 親しげに笑うれおんが眩しく輝く。 「待ってるわ」 「わかりました。あたしもいい返事ができるように、努力します」 れおんは、感激していた。面接官から頭を下げられて、来てほしいなどと言われたことは初めてだ。 「何か言い忘れたことがあるような、ないような。最初のほうお嬢に何喋ったか忘れてしもうた」 「ダメじゃないですか」れおんはケラケラ笑った。 「だから推理小説書けんのや」 「推理小説?」 「何でもあらへん」 ようやく長い面接が終わった。 「楽しかったです」 れおんは笑顔でお礼を述べ、クリニックを出た。 辺りはすっかり暗くなっていた。涼風とは呼べない冷たい夜風を感じながら、自転車で快走した。 安定を取るか。冒険を取るか。もう答えは出ていた。 前へ |次へ |
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