《MUMEI》

信号が、青に変わる。
同時に周りのひと達が、風のように軽やかに歩き出す。僕も、その中に紛れる。

沢山のひとで溢れかえる道路の上で、僕は、ちょうど向かい側からこちらへ−−駅の方へ歩いてくる親子連れを、見つけた。

まだ若そうな夫婦の間を、得意顔で小さい男の子が陣取っている。男の子は両親の手を片方ずつ握りしめ、にこやかに二人の顔を見比べていた。夫婦も、子供の愛らしい表情を見て、幸せそうに微笑み合った。

その、親子を見て。
僕の胸に、何かに突かれたような激しい痛みが走る。


幸せの、カタチ。
そう、それは。

《僕ら》が夢見た、遠い未来の。

もう、永遠に叶うことのない。

悲しい、《願いごと》。


僕は、彼等とすれ違った。足が、止まる。

絶え間無く行き交う人々と、その流れを止めるように立ち止まった僕は、何度も肩がぶつけ合い、彼等は僕に不審な目を向けたが、僕は横断歩道の真ん中で、立ち尽くした。

そして、ゆっくり振り返る。

彼等は、僕の存在にはちっとも気づいていないようで、そのまま、人混みの中に消えていく…。僕は、ただ、ひたすらにその背中を見つめていた。


−−ごめんね…。


遠くから、再び妻の声が、聞こえた気がした。
とても懐かしく、そして悲しい、声だった。

ああ、君は。
そうやって、何度も、繰り返すのか…。

僕を、許さないというのか…。

絶望的な気持ちに陥りながら、僕はその親子連れから目を逸らし、ゆっくりと、また歩き出した。




ぼんやりとした、視界の中で。
赤い光が、点滅する。

繰り返し、繰り返し…。
それは、絶え間無く。

鼓膜に響いてくるのは。
けたたましい、軽い車輪の音。

カラカラ、カラカラと。
何度も、何度も。
物凄い勢いで、駆け抜けていく、ストレッチャー。


《誰か》を乗せて、
誰もいない廊下を、通り過ぎていく−−−。

なすすべなく、僕はそれを、ふらふらと追いかける。


追いかけて、たどり着いた、その先には、
無機質な造りの、大きい両開きの扉が。

僕は、ゆっくり、その扉を開く。


中は、暗い。


部屋の中に立ち込める、線香の、香り。
その、煙の匂いに、目眩がした。

そして、

その闇の中に、ぼんやり浮かんで見えたものは。


素っ気ないパイプベッドと、
その上に寝そべる、《誰か》。

そのひとの顔には、
白い布が、被せてある。

−−最善は、尽くしましたが…。

頭の奥の方から、厳かな男の声がした。
聞き覚えのある台詞だった。


突如として、どこかから伸びてきた男の腕が、ベッドの上の《誰か》に近づく。


やめろ…。

僕は、呟いた。
だが音には変換されなかった。


その男の手が、《誰か》の顔の上にある布の端っこを、握りしめた。


やめろ。
それを取らないでくれ。


男の指に、力がこもるのが、分かった。

そして、言うのだ。



−−残念です…。



男の単調な声が、聞こえた、
次の瞬間。


その布が、勢いよく剥がされ、
僕は、その《誰か》の顔を、目の当たりにして−−−。


その、恐怖に堪えられず、
喉が裂けるような大声で、僕は、叫んだ。



「やめてくれ!!」



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