《MUMEI》 日本の底辺夜11時半過ぎ。 銀星吾郎は、暗い道を暗い顔で歩いていた。 「いっつう…」 頭を触る。また頭痛だ。血圧が上がったのだろう。 吾郎は、心まで暗くなりながら、家へ向かった。 暗く長いトンネルをずっと歩いて来た気がする。吾郎は歩きながら、そんなことを考えていた。 吾郎は、家の近くまで来ると忍び足に変わった。なるべく音を立てないように家に近づく。 目の前が大家の家だ。灯りは消えている。吾郎は、古い木造の一軒家に住んでいた。 静かに鍵を差してドアを開けた。ひらりとメモが落ちる。彼は恐る恐る拾い、家の中に入った。 戦時中ではないが、電気をつけられない。息をひそめて部屋に入ると、メモを見た。 大家の妻からだ。 『明日までに、家賃を払うか、払えないなら相談に来てください。もしも連絡がない場合は、鍵を取り替えます』 メモは鋭いナイフとなり、吾郎の心を切り刻んだ。 「鍵なんか取り替えてみろ。殺してやる」 どす黒い破壊的衝動が込み上げて来る。 セレブが1本50万円もする高級な酒を飲んでいるとき。 政治屋が高級料亭で豪遊しているとき。 日本の底辺では、絶望の泥沼を泳ぎきれずに疲れ果て、溺れながら助けを求めている人々がいる。 しかし、そのSOSは彼らには届かない。たとえ聞こえたとしても、金に困った経験がない彼らには、大変さがわからないのだ。 吾郎は考えた。いつから歯車が狂ったのだろうか。 リストラ。高血圧。就職難。いろんなものが重なった。 不安で血圧が上昇する。 「いっつう…」 頭が痛い。首筋が張る。だが医者へかかる金がない。地獄だ。薬が買えない。 翌日。 吾郎は意を決して大家の家に行った。 今までは早朝に出て、深夜に帰って来る無理な生活をしていたが限界が来た。 大家に会わないためにそんなことを繰り返していたが、鍵を取り替えられたら終わりだと思った。 大家夫婦は近所の間では、美女と野獣と呼ばれていた。 若い綺麗な奥さんは、人当たりも良く、明るい性格で、吾郎にも優しかった。 しかし旦那は柄が悪く、住人に挨拶もしない。 結局旦那の評判の悪さは、妻の評価まで下げてしまう。 古く汚い木造住宅なので、若い人は住んでいなかった。そんなときに27歳の吾郎が引っ越してきた。 妻は喜んで何かと面倒を見た。素直でなかなかのハンサムボーイの吾郎に優しく接していた。 旦那は気に入らない。吾郎に嫉妬した。 ある日、吾郎が家賃を滞納していたことを知り、妻を責めた。 「何で黙ってたんだテメー!」 「違うの」 「追い出すぞ」 「それだけは待って」 「何で庇う?」 嫉妬は冷静な判断を狂わせる。 旦那は吾郎が来たとき、いきなり胸倉を掴んで壁に押しつけた。 「あなたやめて。暴力じゃ何も解決しないから」 吾郎は笑みを浮かべている。旦那は腹を立てた。 「おい。月末までに3ヶ月分の家賃18万円。耳揃えて持って来い。話はそれからだ」 「あなた、ちょっと待って」 無理難題だと思って妻が止めようとしたが、吾郎は面倒くさそうに答えた。 「わかりました。払います」 「吾郎君払えるの?」 「はい」 旦那は手を離した。 「6万払えねえ奴に18万なんか払えるわけねえだろ。貴様逃げる気だな」 「逃げません。失礼します」 自分が悪いから逆らえないが、人生がバカバカしく思えてきた。吾郎は完全に開き直った。 翌日。 妻は心配で吾郎の家に行った。もう居留守を使う必要がないので、堂々と電気をつけ、窓も開けていた。 「吾郎君。本当に払えるの?」 「はい」 「もし払えなかったら、どうするの?」 吾郎の目がナイフのように鋭く光った。 「え?」 妻は背筋に寒いものを感じた。 「もし鍵取り替えたら、殺しますよ」 妻は足がすくんだ。ショックで何も言えない。 「失礼」 吾郎はドアを閉めた。妻は体の震えが止まらない。 暴力はやはり憎悪しか生まなかった。 前へ |次へ |
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