《MUMEI》
招かざる客
大家の妻は居ても立ってもいられず、翌日、また吾郎の家を訪ねた。
吾郎は余裕の笑み。妻は明らかに怯えていた。立場があべこべに逆転していた。
「吾郎君。もしも月末までにお金用意できなそうだったら、私に言って。何とかするから」
しかし吾郎は無言。何かを決心してしまった晴れやかな笑顔は、妻にとって恐怖でしかなかった。
「私も出てけなんて鬼みたいなことは言わないから。吾郎君も殺すとか物騒なことを言うのはやめよう」
吾郎はおもむろに口を開いた。
「話が済んだなら失礼します」
「ちょっと待って」
妻は慌ててドアを押さえた。
「こういうのもあるから一度相談してみたら。何かいい方法があるかもしれないから」
吾郎はチラシを受け取った。少し目を通すと、妻の顔を見た。
「ありがとうございます」
「無理はしないでね。体壊したら意味ないから」
吾郎はドアを閉めた。優しい言葉の百万言よりも、一枚の札が欲しかった。
チラシを見る。
『あなたの慢性金欠病を治します!
早期発見早期治療。相談無料。
夢支援。
あなたの夢を応援します…』
いつもの弁護士事務所の広告とは違う。吾郎は興味を持った。
弁護士は有料相談なので、金のない人はその時点でアウトだ。
吾郎も決して身の破滅を望んでいるわけではない。リッチではなくてもいい。普通の暮らしがしたかった。
普通の生活に憧れていた。人間は食えなくなると猛獣になる。
吾郎は絶え間なく押し寄せる破壊的衝動を振り払い、電話をかけた。
『はい、夢のクリニックです』
翌朝。
「おはようございます!」
「おはよう」
れおんは、いつものように8時半に来た。
タイムカードは手書きだ。賢吾はれおんを全面的に信頼していた。
「お嬢。きょうもお客さんが来るで」
「頑張ります」
やる気満々だ。彼女は和室でナース服に着替えると、診察室に入った。
「ナース服着たまま自転車で来たらええやん」
「無理ですよ。本物に間違えられて助けを求められたらどうするんですか」
「発想が豊かやな。さては浴衣で寝てるやろ?」
「全然関係ありませんね」
賢吾はパソコンを開いた。れおんが隣に立って画面を覗く。
「きょうのお客さんは銀星吾郎さん。珍しい苗字やなあ」
「白茶熊も十分珍しいです」
「れおんやアナンには負けるわ」
また横道にそれている。れおんは本題に戻した。
「どういう相談ですか?」
「月末までに家賃18万円払わんと、大家に殺されると言ってきた」
れおんはびっくりして言葉が出ない。
「大家ヤクザもんか聞いたらそうやと」
「嫌ですねえ」
「まあ、じっくり話聞こう」
「はい」
れおんは、増伊アナンのときとは違う種類の緊張感を感じた。胸騒ぎといってもいい。
招かざる客。
れおんは直感力に優れている。何となく嫌な予感がして仕方なかった。
「金星吾郎。27歳」
「銀星です」
ピンポーン。
「はい!」
吾郎はドアを開けた。
「おはようございます」
「え?」
目の前には、天使がいた。
「あ、おはようございます」
輝くような笑顔。たまらない。吾郎は感激した。
「どうぞこちらへ」
二人は診察室に入ってイスにすわった。
「どうも、院長の白茶熊言います」
「はい」
「こちらは婦長の姫野れおんです」
「初めましてって、いつから婦長になったんですか。そもそも私しかいないじゃないですかあ」
二人のやりとりに、吾郎は笑みを浮かべた。
「だいたいの話は聞きました。で、銀星吾郎さんとしては、そういう荒っぽいところからは引っ越したいと」
「はい」
吾郎は暗い顔で俯いた。れおんは真顔で直視する。
「数日前も襟首掴まれて壁に叩きつけられて」
賢吾がすかさず即答した。
「傷害罪やないか」
「傷害罪?」
「告訴したらええ。豚箱ぶち込んだれ、そんなドアホは!」
賢吾の突然の激怒に、吾郎もれおんも唖然とした顔で聞いていた。

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