《MUMEI》

『ロープレ』というのは、『ロールプレイング』の略。
僕ら販売員の中では、接客シュミレーションのことをそう呼んでいる。
主に、ひとりが販売員役、もうひとりがお客様役の設定で接客を行い、それをオーディエンスが審査して、その良し悪しをフィードバックしていく。数ある接客トレーニングの中では、一番ポピュラーなものかもしれない。

「今日のロープレの客は手強かったよ。中々セット売りが上手くいかなくて。結局、ボトム一本で終わっちゃった」

適当に話していると、折原は心底呆れたように言った。

「宮沢って、ホントに冗談ばっかり」

それから彼女は僕の向かい側のソファーに腰掛け、僕に「私にもちょうだい」とタバコを指差した。僕はポケットからタバコを取り出し、彼女に渡す。彼女が一本くわえるのを確認して、僕は火を燈したライターを、彼女のタバコの先端に寄せた。彼女は慣れたように、僕から火を貰った。
優雅な仕種でタバコを吸う彼女を、ぼんやりと見つめながら、僕は尋ねた。

「今から休憩?」

呑気な問い掛けに、彼女は一度、チラリと僕に視線を流すと、キレイな唇から煙を吐き出し、「違うわよ」と否定した。

「あなたが売場に戻らないから、様子見に来たの」

その返答を、僕は「あ、そう」と軽く流す。今日のシフトは、僕と折原と店長の3人。早番の僕が休憩に出ている今の時間は、店頭を遅番の2人で守らなければならない。
そのひとりである折原が、店を抜けて僕の様子を見に来たということは、つまり店はよっぽどヒマなのだろう。まあ、開店時から客が少なかったから、それくらい予想はしていたけれど。

僕はテーブルの上にある灰皿に、右手で持っていたタバコの灰を落とす。それから逆の手で携帯を取り出して、開いてみた。

そろそろ戻らないと、店長が怒るだろうな…。

ぼんやりと、そんなことを考えていると、折原が突然、「指輪…」と、ぽつんと呟いた。小さい声だった。僕は顔を上げ、「なに?」と尋ね返すと、折原は僕の携帯を持つ手をじっと見つめたまま、答えた。

「結婚指輪、まだしてるのね」

僕は黙り込む。僕の左手の薬指には、シンプルなシルバーのリングがはめられている。その場所にはめる指輪の意味は、ひとつしかない。
今となっては、この指輪に、本来の意味があるのかは分からないけれど。

折原は静かに言った。

「忘れられないの…?」

忘れ、られない。

胸中で繰り返した。


思い出すのは。
魅力的な美しい笑顔と、
そして、あの香り…。


忘れる訳が、ない。


僕はタバコの火をを揉み消すと、黙ったままソファーから立ち上がる。そして、折原を残して、立ち去ろうと歩き出した。さっきの質問に答えるつもりは無かった。
すると折原は「宮沢!」と、僕を呼ぶ。
ゆっくり彼女を振り返る。彼女は微笑んでいた。爽やかな笑顔だった。
彼女は僕の顔を真っすぐ見つめ、言う。

「今日、行ってもいい?」

…またか、と思った。

折原は、よく僕の家に来ては泊まっていく。しかも、このところ頻繁に。

女が、男の家に泊まってすることといえば決まっている。二人とも大人なのだ。

つまり、僕らは、『そういう』関係だった。

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