《MUMEI》

昔の僕なら、絶対にそんなことはしなかった。だって、生活範囲が近い−−つまり、お互いが同じ職場だと、色々面倒だから。別れることになった場合、特に。

それに、
僕には《妻》がいたから。《妻》のことしか、目に見えていなかったから。


でも、今は…。


「今日は、ダチと会う約束してるんだけど」

適当なウソであしらってみせようとしたが、折原はそんなことで引き下がる女ではない。
彼女はゆるりとひとつ、瞬いた。

「大丈夫。私、遅番だし、行くの遅くなると思うから」

サラリと臆せず答える折原には、何か、揺るぎない自信のようなものを持っているような気がした。

その瞳を見つめながら、僕は、彼女は一体どういうつもりなのだろう、と考えた。


折原と初めて関係を持ったのは、1年前、酒を呑んだ勢いだった。
あの頃、僕は、本当に苦しんでいて、自暴自棄になり、荒んだ生活を送っていた。破滅願望とでも言えばいいのか。今後、自分がどんなに落ちぶれても構わない。そう、考えていた。精神的にまいっていた。


そして気づいたら、
ある朝、僕の隣に折原の寝顔があった。


もちろん最初は、かなりの自己嫌悪に陥った。まともに折原の顔が見られなかったほどに。とんでもないことをしでかした、と後悔していた。

けれどそれが習慣化すると、不思議なもので、ひとは、慣れるのだ。

それ以降、折原は僕の部屋に泊まっては朝、帰っていくことを続け、そんな乱れた関係に対する嫌悪感は薄れていった。


折原は、恋人にしろとは言わなかった。僕もあえて、そんな台詞は口にしなかった。

その必要はないと、思ったから。

彼女は性格もいいし、美人だし、仕事も出来る。男にモテるのも、頷ける。


でも、
僕にとっては、ただそれだけ。


この先の未来を、二人で一緒に歩んで行きたいとか、彼女と、ずっと離れたくないとか、そんな特別な感情は、僕にはない。


ただ、近くにいたから。
つまり、お手頃だったのだ。

結局、誰でも良かった。
この心の隙間を埋めてくれるひとなら、誰であっても。


折原が、僕らの関係をどう考えているのか、分からないけれど。

でも、最近、引っ掛かる。

彼女の言動や、態度や、表情が、
僕の隣にいて当然、と物語っているような気がして。

きっと、自惚れているのだろう。
僕と、彼女が、相思相愛であるのだ、と。
勘違い、しているのだ。


時々、それが、堪らなく欝陶しく感じる−−−。


僕は深いため息をついて、「勝手にしたら?」と冷たく言い、踵を返して、颯爽と歩き出した。

背中に、折原の視線を痛いほど感じながら、僕はリフレッシュルームから出て行った−−−。

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