《MUMEI》 秘密のベール仲矢はイスにすわった。 「24万円は必ず私が役所に持って行きますから」 「いや、24万はわいが持ってくよ。で足りない分は相談したらええ。仲矢さんは札束でその若い奴の顔を叩きたいやろうけどな」 「ほらほらほらほらほらあ!」 「アハハハ」 れおんに受けたので、仲矢はさらに調子に乗った。 「ビンビンビンて、ほれほれほれえ!」 「オモロ過ぎるわ」 「アッパーカットですよ。ほらほらほらほらほらあ!」 「やっぱやめよう」 仲矢は慌てた。 「冗談ですって」 賢吾はおもむろに財布から1万円札を2枚出した。 「24万とは別にな。これで今夜美味いもんでも食って、ビールでも飲みなはれ」 仲矢は目を丸くした。 「院長…」 「競馬は金持ちになってからのほうが当たるよ」 仲矢とれおんは真顔で聞いた。 「生活費を競馬で稼ごうとすると、不思議と当たらんのや。負けたら家賃払えんっちゅー状態じゃ、予想が硬くなるよ。リッチな人間は大胆に大金張れるからな。当たればデカいよ」 賢吾はさらに解説を続けた。 「金ないと配当4.0倍に1万賭けたりする。1万円の大金人質にして、勝ってもプラス3万じゃ旨味ないやろ」 「そうですね、一般論として」 「リッチなら40倍の高配当に1万賭けれる。1万円失うかプラス39万円かのギャンブルなら、オモロいやないか」 仲矢が身を乗り出した。 「師匠!」 「だれが師匠や」 仲矢は2万円を大事にしまった。 「それはビール代やぞ」 「何を言う気ビバーチェ」 「知らんがな」 「こんなありがたいお金。競馬には使えませんよ」 「その感覚が重要や」 仲矢真次は、感激の面持ちで診察室を出ていった。 「ありがとうございます。失礼します」 玄関で靴を履く仲矢に、れおんは明るく言った。 「じゃあ、仲矢さん。頑張ってください」 仲矢は満面笑顔だ。 「ありがとう。握手を」 れおんは嫌がるそぶりを見せずに握手した。 「君最高」 「何言ってるんですか」 仲矢は帰った。れおんはホッとした。きょうは嫌われずに済んだ。 彼女は診察室に戻ると、イスにすわった。 「院長」 「何や?」 「お聞きしたいことがあるんですけど」 「何や改まって」 二人は向き合う。 「お金を出している作家って、院長のことじゃないんですか?」 賢吾は、れおんの目を真っすぐ見た。 「なぜそう思った?」 「仲矢さんと話しているのを聞いていて、わかりました」 賢吾は深く溜め息をついた。 「お嬢のような頭のええ子は騙せんな」 「じゃあ、やっぱり」 「そうや。わいは貧困で30歳の真冬に死んだ。だれも助けなかった。だれもやぞ!」 賢吾の怒りに満ちた目を見て、れおんは胸が痛んだ。 「金出す人間は必ずわいを罵倒し、侮辱し、恩を売った。わいは病で倒れた。万事休すや。そんなある日、日曜の昼。知人の女性が来た。お見舞いだと言って封筒を渡された。わいの体を気遣い、励まし、恩を売るようなそぶりは一つもあらへん」 静かな診察室に、賢吾の声だけが響く。 「大金が入ってた。これや。ジャン・ヴァルジャンはいた。わいもジャン・ヴァルジャンになろうと決めた」 ジャン・ヴァルジャン。 れおんは記憶を辿った。日頃はボロのようなコートを纏い、貧しい生活をしているジャン。しかし、いざ人助けとなると、金貨をはたいて周囲を驚かせた。 世界のユゴーが生んだ、世界的に有名な男。ジャン・ヴァルジャン。 「院長なら、なれますよ」 「そうかな」 れおんは明るく聞いた。 「そうだ。院長、作家ってことは小説出してるんですよね?」 賢吾は焦った。 「知らんわ」 「読みたい!」 「ええよ、読まなくても」 怪しい。 れおんは詰問した。 「普通読みたいでしょう。あ、わかった。ヤバい小説なんだ」 「仕事中や」 賢吾はパソコンに向かった。 「本名で出てるの?」れおんは満面笑顔だ。 「知らんわ」 前へ |次へ |
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