《MUMEI》
テーマ
仕事を終えて従業員用出入口から外に出た僕は、今度は客用のエントランスから百貨店へ入った。帰宅してから食事の用意をするのも億劫なので、デパ地下で何か買って帰ろうと思ったのだ。

折原には「友達と会う」と言っていたけど、そんな約束は真っ赤なウソ。本当は何の予定も無いし、家に帰っても僕を待っていてくれるひとは、『今』は誰もいない。

一階のフロアは化粧品売場で、ゴールデンウイークの夕方ということもあり、殺人的に混雑していた。そのほとんどが女性客。当然と言えば当然なのだが、その中を男がひとりでうろつくのは気が引けるものだ。

僕は早足で下りのエスカレーターに向かう。化粧品ブランドのコーナーを通り過ぎる度、そこにいるスタッフが僕に、笑顔で挨拶してくる。それすら、気まずかった。

ようやく下りエスカレーターの乗り口にたどり着いたとき、すぐ側のコーナーから、「ありがとうございました!」という明るい声が聞こえた。何となく、そちらに目を遣る。

小さなカウンターと、その背後にはデザイン性に優れた沢山の瓶がディスプレイされている。そのディスプレイ棚の上には、「WORLD FRAGRANCE」という文字が見えた。

どうやら香水コーナーのようだ。

カウンターの外側には、そこのスタッフらしき女性が、恐らくは先程まで接客していた客を見送っていた。

僕は、そのカウンターの上にある、ボトルに目が吸い寄せられる。

ライトグリーンの液体が入った、縦長の瓶。スプレー口はスタイリッシュなシルバー製。


あれは…。


遠目からでも、それが何であるか、僕には分かった。

引き寄せられるようにフラフラと、僕の足は、そのカウンターへ近寄っていく。

あれは。
まさか…。

心臓が、高鳴る。その、胸の奥が、軋むように痛む。
カウンターの前にたどり着き、出しっぱなしのそのボトルを見つめ、僕は息を呑む。


間違いない。
これは。


「エタニティーですよ」


背後から急に声が聞こえ、僕は慌てて振り返る。そこには黒いスーツを着込んだ女性が−−さっき、客を見送っていたあのスタッフが立っていた。
彼女は僕の狼狽した様子を見て、「突然お声掛けして申し訳ございません」と丁寧に詫びる。僕は首を横に振り、「いえ…」と口ごもりながら、さりげなく彼女の左胸を盗み見る。

『矢代』と書かれたネームプレートがあった。

名前を確認して、僕は彼女の顔を見、仕事用の愛想笑いを浮かべる。

「ちょっと、通り掛かっただけなんで」

買い物客ではない、とシグナルを送った。彼女はそれを理解したのかどうか分からないが、笑顔を浮かべて、「左様ですか」と軽く受け流す。

「こちらのエタニティーは、クリエイトされてから何年も経ちますが、未だにファンの多い名香なんですよ」

勝手に説明を始めた。僕は笑顔を崩さず、「そうですか」と適当に答えた。矢代さんはまだ僕の胸の内を探っているのか、当たり障りのない話を続ける。

「香りもさることながら、コンセプトが素晴らしくて、『永遠の愛』をテーマに作られたんです。素敵ですよね?」

『永遠の愛』。
僕は心の中で、繰り返す。

そうだ。
《あいつ》も、そんなことを言っていた…。

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