《MUMEI》

矢代さんはボトルを手に取り、続ける。

「こちらは女性用の香りで、男性用もご用意しております。カップリングフレグランスと言って−−−」

彼女の声が、だんだんと遠退く。

知っている。
エタニティーが『永遠の愛』をモチーフとしているのも。男女の対の香りがあることも。

みんな、みんな、知っているのだ…。


不意に。
記憶の彼方から、聞こえてくる、声。

−−テーマが『永遠の愛』なんだって!すっごく素敵だよね?

その言葉に、僕は「ウソ臭い」と笑った。《あいつ》はムクれて、続ける。

−−これはね、カップリングって言って、女性用の香りと男性用の香りがあるの!お互いの香りを邪魔しないようになってるんだって!すごいでしょ?

まくし立てる《あいつ》に、僕は「ホントかよ〜?」と疑うような声を上げた。《あいつ》は僕のつれない返事に、ヤキモキしたように言う。

−−『永遠』とか、カップリングとか、この香水、今の私達にピッタリじゃない?

あまりに必死に僕の興味を引こうとする《あいつ》が可愛くて、つい、からかいたくなる。「ハイ、ハイ」と適当に返事を返すと、《あいつ》は膨れっ面をした。

−−もう、彰彦ったら!真面目に聞いてよ!!



明るい、《あいつ》の声。

なぜだろうか。
《あいつ》がいなくなって、時間は確実に流れているのに、こうやって不意に思い出してしまうのは。
胸が、こんなに切なくなるのは。


自分から、《あいつ》を突き放したくせに。



「お客様?」



怪訝そうな声に、僕はハッとする。顔を上げると矢代さんが不思議そうな瞳を僕へ向けていた。僕は慌てて平静を装い、微笑みを浮かべる。

「すみません、ぼーっとしてしまって」

「何でもないんです」と消え入るような声で呟いた。矢代さんはニッコリと微笑み、「香りをどうぞ、お試し下さい」とエタニティーを紙に吹きかけた。

ふんわりと鼻孔をくすぐる、爽やかな香り。シラユリの、上品なイメージを損なわない、香り。


ああ、昔のままだ。
《あいつ》が、使っていた時と、同じ香りだ−−−。

《あいつ》はシラユリが大好きで、結婚式のブーケもシラユリにしたいと、式場の担当者にわがままを言っていた。神聖なイメージがするから、結婚式には絶対シラユリを持ちたいと、幼い頃からそう思っていたのだ、と笑顔で話した《あいつ》の顔。

今でも、鮮明に思い出す。

そして、あの笑顔を壊したのは、他でもない僕なのだ。


矢代さんは「お試し下さいませ」と言いながら、香りをのせた紙を僕に差し出した。僕は恐る恐るそれを受け取り、鼻先へ近づけ、香りを嗅ぐフリをした。

怖くて、香りを試すことがなかった。
《あいつ》の幻影に、追いかけられそうで。

僕は紙をカウンターの上に静かに置いて、「良い香りですね」と適当にコメントする。矢代さんは嬉しそうに笑い、「ありがとうございます」と答えた。

これから、矢代さんは本格的な接客に入ってくるだろう…。
何となく察した僕は、ニッコリと愛想笑いを浮かべて、「すみません、また出直してきます」と言った。

「ちょっと、見てただけなんで。すみません、声掛けてもらったのに」

僕が労うと、矢代さんは慌てたように首を振り、「とんでもないです!」と答え、ふんわりと笑う。

「また何かございましたら、お気軽にお立ち寄り下さいませ」

その言葉に、僕は微笑みを返して、「失礼します」と一声かけると、矢代さんは満面の笑顔で「ありがとうございましたぁ!」と元気よく挨拶をした。

僕は早足で下りエスカレーターに乗り込む。けれど、エタニティーの甘い香りが、いつまでも名残惜しそうに、僕の周りを漂っていた…。

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