《MUMEI》
蟻地獄
人生をエンジョイできたら、どんなに楽しいだろうか。
しかし思いもかけない苦難に遭遇するのも、また人生だ。
思い通りに行かないから人生は面白いと言う強い人もいる。
思い通りに行かない人生のどこが面白いのかと嘆く人も多いだろう。
どこで歯車が狂ったのか。いつの間にか蟻地獄に堕ちている。
自力脱出が不可能な人間は大勢いる。確かに制度はある。だが、助けを求める市民に高飛車な態度を取り、ときには見下し、あるときは侮辱する。
あるいは恫喝。あるいは嘲笑。神経を逆撫でして突き放す。
人権を侵害され、誇りを傷つけられ、心を土足で踏みつけにされる。
そんな日本の底辺の現状を、政治家はどこまで知っているのだろうか。
そんな苦難に押し潰されそうな人々を、困ったときはお互い様のドンマイ精神で優しく接し、プライドを尊重しながら助けていく。
それが賢吾とれおんの仕事であり、役目だ。
きょうも夢のクリニックには、苦を抱えた市民がやって来た。
「こんにちは!」
「あ、こんにちは」
石坂博美。28歳独身。れおんは彼女を見て、凄く綺麗だと感じた。
長い黒髪を後ろに束ね、疲れ果てている感じが痛々しい。
笑顔がない。れおんは、この人の笑顔が見たいと思った。
「どうぞ」
診察室に入る。博美は二人を見て少し驚いた。ナース姿の若い女性だけでなく、男性も白衣を着ている。
しかしユーモラスなリアクションをする余裕など、全くないところまで来ていた。
「初めまして。このクリニックで院長をしている白茶熊賢吾言います」
「姫野れおんです」
「石坂博美と申します」
石坂は深々と頭を下げた。
「市議に相談したら、こちらを紹介されまして」
「市議ゆうと、石坂さんは東京ではないんですか?」
「はい」
石坂博美は、俯き加減だ。小さな声で遠慮がちに話し始めた。
「何からお話すればいいのか。私、女優として活躍するのが夢なんですけど」
「ほう」
「いい年して夢みたいなことと思うかもしれませんが」
「思うわけないやろ」
「え?」博美が顔を上げた。
「アメリカなら40デビューくらい当たり前や。日本はマスコミに翻弄され過ぎや。マスコミは女子高生中心に地球が回ってると思っとる人種が多いからな。せやから23でババー言って、自分に酔って、最終的に自分たちの首絞めてんのや。自分の信念を基準にして生きている人間はなあ、マスコミなんかマスコットみたいなもんや」
博美は口を開けたまま動きが止まっている。れおんは賢吾の暴言は励ましの裏技と知っているから驚かない。
博美の顔に赤味が差してきた。
(この人になら、話してもいいかな)
「実は、明日までに200万円用意できないと、身の破滅なんです」
「安心しなさい。200万なら何とかなる」
賢吾は早く不安を取り除きたかった。人間、断崖絶壁では知恵が湧かないからだ。
案の定、博美も、少し落ち着いた口調で話をした。
「私、劇団で団長をやっていまして、脚本から演出からすべて私が。あとキャストも」
「主役ですか?」
「主役も脇役も両方やります」
「やりがいのある仕事ですね」
「はい…」
博美は、唇を噛むと、拳を握りしめた。
「そのやりがいを、一人の男に壊されました」
博美は、今にいたるまでのサスペンスを、ドラマチックに語った。
石川と名乗る太った中年の男。会社の社長らしいが、よく博美の劇を見に来ていた。
無名の劇団にとって、常連客がどれだけありがたい存在かわからない。
そのうち石川と劇団は自然に親しくなり、食事や飲みに行くこともあった。
皆金はない。料金はすべて石川が出した。
ある日のこと。博美だけが誘われた。警戒はしたが、むげには断れず、石川と二人だけで飲みに行った。
「石坂さん。勝負、賭けてみない?」
「勝負?」
「100万円。出してもいいよ」
博美は驚いた。
「そんな大金はいただけません」

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