《MUMEI》 悪魔石川は水割りをひと口飲むと、きさくに話した。 「投資ですよ、投資。未来への投資です」 「投資?」 「100万円で衣装揃えて、小道具にもこだわって。あと、石坂さんもアルバイトやめて劇に専念する。どうです?」 博美は迷った。悪い話ではない。100万円は大金だ。喉から手が出そうだった。 「堅実にコツコツお金を貯めてたら間に合わないでしょう。一か八か。勝負賭けてみたら」 28歳。微妙な年齢だ。舞台もやりながら、テレビや映画にも出たいという夢は、まだ捨てていない。 博美は石川を見つめた。 「でも、そんな大金、お返しするあてがありません」 「大丈夫です。劇が成功して、儲かってからでいいですよ」 博美の目が燃えた。 「では、よろしくお願いします」 貯金通帳に振り込まれた100万円を見て、博美は感激に震えた。 彼女はアルバイトをやめて脚本に打ち込み、衣装や小道具も揃えた。 劇団員も皆貧しさから脱したかった。全員で勝負を賭けた。 しかし。 現実は厳しい。不況の波は、こういうところにも表れる。金に余裕がないのに、無名の劇団のお芝居を見に来てくれる人は、なかなかいない。 ガラガラの客席を見回した石川は、渋い顔で溜め息をついた。 劇が終わり、数日後、再び博美は石川に誘われた。 高級レストランでワインを飲みながら、意気消沈する博美を激励する。 「集客力の無さはどこの劇団も同じ。悩みの種です。芸能人が主役の劇じゃないんですから」 博美は自信作だっただけに、大赤字の打撃は大きかった。 「焦らずじっくり行きましょう。石坂さんっ」 「はい」 石川は、やや落ち着かないそぶりを見せると、声を落とした。 「石坂さんを大人と見込んで言いますけど」 「え?」 「私に頼るという選択肢もありますよ」 「頼る?」 意味がわからない。何を言おうとしているのか。 「私が劇団のスポンサーになってもいいですよ」 「スポンサー?」 「具体的な話は部屋でしましょう。私はきょうホテルに泊まるんですよ」 博美は露骨に嫌な顔をした。 「石川さんまでそういう人とは思いませんでした」 「大人になりましょうよ石坂さん」 「残念です。失礼します!」 博美はひと睨みすると、バッグを持って席を蹴った。背中に石川の声が飛ぶ。 「じゃあ100万円一括で払ってもらいましょう」 博美は耳を疑った。テーブルまで戻ると、石川を見すえた。 「石川さん。本気で言ってるんですか」 「即日全額払い。今すぐ返してください。100万円」 博美は怒りで我を忘れそうだった。 「投資じゃないんですか?」 「石坂さーん。それは私とあなたが友達だから成り立つ話でしょう。赤の他人に100万円を無利子で貸す物好きがいると思いますか。石坂さんっ」 博美は怒り心頭で背を向けると、店を出た。 深夜。 博美が入浴中に、ドアを開けようとする音が聞こえた。 「え?」 1時過ぎている。石川の顔が浮かんだ。 「冗談でしょ」 博美はバスルームから出ると、ドアに向かって叫んだ。 「何ですか!」 「ドアを開けてください」 知らない男の声。 「今何時だと思ってるんですか?」 「100万円用意できましたか?」 博美は怒りが爆発した。 「警察に通報しますよ!」 音が消えた。裸の博美は、外の様子を見た。姿は見えないが、車のドアを閉める音と、走り去る音が聞こえた。 こんな恐怖の中で生活をするのは無理だ。 博美は、夜逃げをした。 都会を離れ、田畑に囲まれた、のどかな街に引っ越した。 劇団は一時解散。一人の悪魔に壊された。しかし皆夢は諦めていない。 博美は思った。東京でなくても旗を挙げることはできる。 休日の午後。 タンクトップにショートパンツで部屋に寝転がりながら、テレビを見ていた。 窓も全開。開放感な気分。石川の軍門に下っていたら、毎日が地獄だっただろう。 トントン。 「ん、だれだろ?」 前へ |次へ |
作品目次へ 感想掲示板へ 携帯小説検索(ランキング)へ 栞の一覧へ この小説は無銘文庫を利用して執筆されています。無銘文庫は誰でも作家になれる無料の携帯・スマートフォン小説サイトです! 新規作家登録する 無銘文庫 |