《MUMEI》
プロローグ
男はとにかくこの暑さから逃れるために海岸を目指して歩き続けた。
背丈より遥かに高いサトウキビが男の視界を遮っていた。あと少しで海に出る事が出来ると思った瞬間だった、天と地が逆になり足元に雲が浮かぶ青い空が見えた。

気がつくとそこは診療所の簡易ベッドの上だった。白い天井に造り付けの扇風機の羽がゆっくり回転しているのが見えた。「あい、気がついたみたいさね、」
髭面の男が顔を覗き込んで言った。
「良かったさあ、これで殺人犯にならんですんだはずよ」
もう一人の男が椅子に胡座をかいて座ったままの恰好で答えた。
「なんで?なんでわんが殺人犯にならんといかんわけ?ぶつかって来たのはこの人でしょう、わんはなんも悪い事しとらんはず。」
どうやらサトウキビ畑で車と出合い頭に衝突したらしい事が分かった。男は起き上がろうとしたが腰に激痛が走った。
「あいたたたたっ、痛ってえー、」
「打撲だけで済んだから良かったけどこれが骨でも折れてたら大変だったさ、一生歩けなかったはず、打撲だけで済んだからすぐ良くなるさぁね、大丈夫、大丈夫。」
椅子に座っていた男がゆっくりと立ち上がるとベッドの側に来て立った。「あんた内地ゃあね?顔がハブカクチャアだからウチナンチュ?」
男は男が何を言っているのかさっぱり分からなかった。
それだけでなく男は自分が誰なのかさえも思い出せなかった。
「アンタの名前はなんて言うのか?」
髭面の男もベッドに近づき顔を再び覗き込んだ。「あい、やっぱり答えられんみたいよ、頭打ったから記憶喪失になったんかねぇ?」
男は一体全体自分に何が起こったのかをまったく思い出せなくなっていた。うっすらと残っている唯一の記憶は倒れる前に見た底抜けに青い空と真っ白な雲だけだった。それだけが目に焼き付いていた。それ以上は何一つ思い出せなかった。

「アンタの名前はなんて言うのか?」
男が思い出せなくていると髭面の男もベッドに近づき顔を再び覗き込んだ。
「あい、答えられんみたいよ、記憶喪失になったんかね、頭打ったからね、」
自分に何が起こったのかまったく思い出せなくなっていた。最後に見た青い空と雲だけが目に焼き付いてきた。それ以上は何も思い出せなかった。だから男は髭面男の言う通りにしたほうがいいと思った。
「打撲だけで済んだから良かったけどこれが骨でも折れてたら大変だったさ、一生歩けなかったはず、打撲だけで済んだからすぐ良くなるさぁね、大丈夫、大丈夫。」
すると椅子に座っていた男がゆっくりと立ち上がってベッドの側まで来て顔を覗き込んだ。
目の前にその真っ黒な顔が広がった。しばらくすると段々色が抜け始めてグレーになると再び意識が遠退いて完全に色が抜け男の輪郭も薄れて消えていった。

再び気が付くと今度は白い天井ではなくそこには茶色く薄汚れた天井があった。男は自分がどこにいて何がどうなったかまったく分からなかった。どうやら誰かの家に寝ているらしいと言う事と開け広げられているのに関わらず汗が吹き出すほどに暑い事からここが南国であるらしい事は理解出来た。
縁側の外の小さな庭先に真っ赤な花が風に揺れているのが見えた。ハイビスカスの花だった。初めて見るのに何だか懐かしい気持ちがした。
「あい、ちむどんどんしたさ、黙って立ってるから驚くさあね、」
そこはどうやら食堂らしかった。髭面の男がカウンターの中で何やら食材を包丁で切っていた。
男はここがどこなのか、一体なぜここにいるのかがまったく分からなかったので音のする方にと誘われて部屋から出てきたのだった。男は寝ぼけた顔をしてトイレにと続く通路の扉の前に黙って突っ立ったままだった。
「やっと目が覚めたみたいだね、」
髭面の男はそう言うと柱に掛かっている時計を見た。本部漁業組合と書かれた時計の短針は4と5の間、長針は7を指してした。髭面の男は指を折って数えた。
「28時間以上寝てたはず、まる一日以上は眠ったさあ、だからボウーッとしても無理はないよ−、まあまあそんなところにおらんでこっちに来て座ったらいいさ。」
男は言われるままカウンターの角の席に腰掛けた。
「イテテテ、」
稲妻のように腰に痛みが走った。

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