《MUMEI》
忘れて…
アパートの、近所にある古ぼけた居酒屋のカウンター席で、僕は酒を浴びるように飲んでいた。

この店からは、歩いてアパートに帰れるので、終電も、時間も気にせず飲むことが出来るということもあり、僕のお気に入りだった。

僕は、テーブルの上に置いてある、琥珀色の液体が入ったロックグラスを、ぼうっと眺めていた。

考えているのは、もちろん妻のこと。


あんな、昔のことを
祥子のことを

今さら、思い出すなんて。


酔っ払った僕は、自嘲気味に笑う。


感傷に浸るなんて、
イイ身分だな。

アイツが…祥子が、
僕の前から姿を消したのは、

他でもなく、

僕自身のせいだ、というのに…。


「もう、その辺にしておきなよ。見苦しいって」

居酒屋のオヤジさんが見兼ねたように、すっかり出来上がってる僕へ言った。彼は、僕の手の中にあったグラスを奪い取り、ため息をつく。

「最近、『らしく』ないよ」

カウンターテーブルに突っ伏したまま、僕は瞬いた。

『らしく』ない、ね…。

僕はガバッと身体を起こし、椅子から立ち上がった。財布を取り出して、適当に札を抜き、オヤジさんに手渡す。

オヤジさんはレジに金をしまってから、小銭を数えて、僕に差し出した。

「まだ、若いんだからさ。投げやりになっちゃいかんよ」

僕はオヤジさんから小銭を受け取り、「リョーカイ!」と軽く返事をして、出入口の引き戸を勢いよく開けた。

「毎度〜!!」

オヤジさんの威勢のイイ声が、店をあとにする僕の背中を、追い掛けてきた。




居酒屋を出て、少し歩くとアパートが見えてくる。僕は鼻歌混じりに、自宅を目指してフラフラと歩いていた。

アパートのすぐ近くまでやって来たとき、外階段の下に、誰かが座り込んで待っている姿に、気がついた。

華奢な身体つきから、その《誰か》が、女であることは、分かった。

僕は、ドキッとした。

一瞬、妻かと思ったのだ。
妻が…祥子が、僕等の家に、帰ってきたのだ、と。


有り得ない、筈、なのに…。


女は、夜の静寂の中響き渡る、僕の靴音に気づき、顔を上げた。
その、顔を見て、僕は軽く目を見張った。

「おかえり」

朗らかに微笑んで見せたのは。

「折原…?」

同期の折原 美紀だった。
折原は僕の姿を見ると、本当に嬉しそうな顔をした。

「私の方が早かったね。ちょっと待っちゃった」

僕は黙り込む。まさか今夜、本当に来るとは思わなかった。

「…俺が帰ってこなかったら、どうすんの。待ちぼうけじゃん」

呆れて僕が言うと、折原は元気な声で「平気だよ」と笑った。

「好きなひとを待つのは、辛くないもん」

僕はゆるりと瞬いた。


好きなひとを待つのは、
辛くない、だって?

寝ぼけてるのだろうか…?


『待つ』のが、辛くないわけがない。

僕と祥子は、
お互いをずっと、ずっと待ち続け、

いつしか、『待つ』ことに耐え切れなくなった祥子は、

僕の前から、消え去ったのだ…。

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