《MUMEI》

呆然とする僕を居間に残し、祥子は玄関に向かってパンプスを履きはじめた。慌てて僕は彼女を追い掛けて、その華奢な背中に声を投げ掛ける。言うなら今しかない。そう思った。

「俺と、付き合って下さい」

祥子は細い肩を揺らした。思い付いたまま、僕は続ける。

「ずっと、言おうと思ってたんだ。けど…その、タイミングが分からなくて…しかも、順序めちゃくちゃなんだけど…」

えーっと、と次の言葉を探している僕に。

祥子は突然靴を脱ぎ、後ろにいた僕に抱き着いた。僕の胸に顔を埋めて、肩を震わせる。祥子は、泣いていた。
そして、小さく、答えてくれた。

「嬉しい…」



その日をさかいに、僕等は正式に付き合い始めた。

あとになって、あのとき何故すぐに帰ろうとしたのか祥子に尋ねたら、彼女は言いにくそうに教えてくれた。

「昔、好きだったひとのことなんだけどね…」



そのひとは高校の先輩で、私の一目惚れだった。
思えば、あれが、私の初恋だったのかな。

あの頃は私もかなり積極的で、いっぱいアピールして、頑張って仲良くなったの。

電話とかメールも毎日してたし、しょっちゅうデートもしたし、一人暮らしだった彼の家に泊まったりもしてた。

お互いに就職してからも、ずっと関係は続いてて。
足掛け5年、くらいかな。長いよね?

彼のことなら、私は何でも知っていた。
コーヒーを飲むときはミルクが必要だとか、お気に入りの枕がないとよく眠れないとか。

色んなことを知っていて、彼を理解してあげられるのは、世界中で私だけなんだって思ってたの。

私はすっかり、彼と付き合ってるつもりだった。

でも、違った。

彼には本命が他にいて、私は単なる暇つぶしだったんだって。

あんなに『好きだよ』って言ってくれてたのに。

私達、付き合っていたんじゃなかったの?って聞いたら、彼、笑って逆に聞いてきた。


『いつ、付き合おうって言った?』、だって。


それを聞いて、ああ、そうかって思った。


『付き合おう』って言葉無しには、ひとは恋愛が出来ないんだって。


思い上がってた自分が恥ずかしくなった。浅はかで、幼くて、不様で…消えてしまいたいと。


それ以来、男のひとに慎重になっちゃった。信用、出来なくなっていたのね。

傷つくのが嫌で、いつの間にか『守り』に入っていた。

独りは寂しいけれど、傷つくこともないし、悲しくない。

そうやってしばらくは、男のひととは縁の無い生活を送ってた。

そんな私を可哀相に思った同僚が、合コンに誘ってきたの。
正直、嫌だった。でも断ることが出来なくて、仕方なく参加したの。

そこで、彰彦と出会った。

あなた、何だか不思議なひとって感じがした。あ、変なイミじゃなくてね。

何て言えば良いのかな…。
懐の深い、優しいひと…かな。

他のひととは違う、そう思った。

だから、惹かれたのね。

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