《MUMEI》

彰彦と何度も会う度に、どんどん好きになっていって、自分でも歯止めが効かなくなっていた。

幸せなのと同時に、とても、怖かった。

私だけが、あなたを好きなんじゃないかって。だって、いつまで経っても、『付き合おう』って言ってくれなかったし…。

またひとりで思い込んで、前の彼みたいに笑い飛ばされたら、私はもう、立ち直れないって…。

辛くて、苦しくて、どうにかなってしまいそうだった。


悩むうちに、思い付いたの。


一度だけ、あなたに抱かれて、
全部、忘れようって。


そうすれば、あなたと過ごした日々も、いつかきっとキレイな想い出に変わって、それを糧に、私は独りでも生きていけるって。

だから…。



話を終えた祥子は、冷めきった目をしていた。そしてそれは、遠い過去の男の影を、まだ、引きずっているのだ、と僕は思った。

途端。

胸の奥の方から、ふつふつと、荒々しい感情が沸き上がってきたことに気づく。怒りだった。祥子をフッた、その酷い男に対してではない。

目の前の、祥子に対する怒りだった。

「俺のこと、信じられなかったの?」

僕の低い声に、祥子は驚いたようだった。目を大きく見張り、僕の顔を見つめる。
僕は、続けた。

「俺も、その男と同じだって思った?」

「違うよ」

祥子は慌てて首を振る。

「違うの…私は」

言いかけた彼女を、僕は強い口調で遮った。

「信用出来なかったから、あのとき帰ろうとしたんだろ?」

そう言うと、彼女は黙り込んだ。図星なのだろう。僕はため息をつく。

「俺、すっげーショックだったんだぞ。朝になった途端、急に他人みたいな顔してさ。理由も思い付かなくて」

祥子は消え入りそうな声で、「ごめんね…」とようやく呟いた。その瞳には、じんわりと涙が浮かんでいた。
僕は彼女に顔を寄せて、額をくっつけた。

「俺は、祥子が考えてるよりずっと…ちゃんと祥子のこと想ってるよ…」

低い静かな声で囁くと、彼女はゆっくり目を伏せた。彼女の長い睫毛の間から、スッと涙が零れ落ちた。
僕は、彼女にそっと口づけ、ゆっくり顔を離す。涙の味がした。
そして、「だから…」と、言った。


「信じて、俺のこと」


祥子は瞼を持ち上げ、赤くなった瞳をまっすぐ僕に向けた。それから、微かに、頷いたのだった。



僕は、神さまなんて信じていないけれど、
このときだけは、その神さまに誓った。

祥子を、傷つけない。
絶対に。

だから、僕等に、
幸せを与えて下さい、と。


ずっと、ずっと、
祥子と二人で、生きていけますように、と…。



その日から、祥子は見違えるように明るくなった。
表情や、仕種や、話し方のトーンが、以前とは異なり、溌剌としたのだ。

きっと、これが、祥子の本当の姿なのだ。

そんな、彼女の変化に、僕は嬉しくなった。

手痛い失恋による、深い心の傷を、彼女なりに必死に乗り越えようとしているのだ、と。

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