《MUMEI》
フラッシュ・バック
僕等の付き合いは本当に順調で、そのうちに、僕は彼女との『結婚』を意識するようになった。

『結婚』をすれば、祥子を…祥子の全てを、僕が受け入れてあげられる。
漠然とだが、そう思った。

職場の飲み会で、ちらっと同僚にその話をすると、『まだ早い』と窘められたが、僕は、その忠告を聞かなかった。

僕等の絆は運命で、こうなるべくして、あの日、出会ったのだと。

きっと、僕は、とても幼かったのだと思う。


そうして、祥子と出会ってから、一年後。

僕は、いつもの様に部屋へ遊びに来た祥子に、プロポーズをした。

差し出しされたエンゲージリングを見つめて、祥子は泣いた。幼い少女のように、頼りなく、泣いていた。
僕は、そんな彼女の手を取り、ゆっくりと指輪を薬指にはめてあげた。

祥子は一度指輪を見つめ、ゆっくり顔を上げて僕を見つめ、そして、「私で良ければ」と、柔らかく微笑んだ。

その、祥子の美しい顔は、今でもはっきり覚えている…。



あの頃、僕等は本当に幼くて、この幸せが永遠に続くのだと、思っていた。

緩やかに、穏やかに、二人で支え合って、ずっとずっと生きていけるのだと、信じて…。



けれど、神さまなんて、本当はいなかったのだと、僕はのちに、痛感するのだ。





朝を迎えて、僕と折原は、身支度を済ませて外に出た。今日、僕は休みで、折原は遅番出勤だったので、時間には少しだけだが、ゆとりがあった。

どこかで適当に朝食を摂ることになり、僕等はブラブラと街を歩き、駅前のコーヒーショップへ向かった。

仕事の話をしながら、道を歩いていると、突然、街行く人々が、騒ぎ出した。
悲鳴じみた声も聞こえる。漂う空気が緊迫していた。

僕と折原は、自然と、視線を巡らせる。

何かあったのだろうか。
駅近くの雑居ビルの前に、人だかりが出来ていた。僕が足を止めると、折原も合わせるように立ち止まった。

なんだろう…。

そう思ったとき、
誰かが大声で、叫んだ。


「救急車…!誰か、救急車を!!」


その叫びに、みんなの顔が引き攣った。

そこにいる人達の、声が、聞こえてくる。

「自殺だ!!飛び降りた!」

「まだ息がある!早く…早く救急車!」


心臓が、ひとつ、大きく鳴った。


−−自殺…?


僕は、視線を落とす。
集まっている人達の足の間から、青白い華奢な腕が、垣間見えた。

それを、目の当たりにして。

僕の脳裏に鮮やかに浮かび上がった、情景。



小綺麗な、バスルーム。浴槽に満たされた、澄んだ水。絶え間無く排水溝に流れ込んでいく、赤い筋。

そして、力無くバスタブにもたれ掛かった、青白い、華奢な腕。

その手首から、溢れ出る、鮮やかな赤−−−。



額から汗が吹き出し、足が震え出す。呼吸が不規則になり、上手く息が出来ない。


不意に、隣に立つ折原が、心配そうに僕の顔を除き込んだ。

「大丈夫…?」

その声に僕は我に返り、首を縦に振った。

「大丈夫、なんでもない…」

口ではそう言ったものの、全然大丈夫ではなかった。心臓が破裂しそうなほど、激しく脈打っていた。目眩がする。


みんなの声が、聞こえてくる…。


「駄目だ、意識がない!」

「誰か、お医者さんはいませんか!?」

「あまり、触らない方がいい!」


意識が、混濁する。

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