《MUMEI》 僕はフラフラと歩き出した。とにかくその場から離れたかった。背後から、折原の呼ぶ声が聞こえたが、僕は無視した。 やめろ。 思い出したくない。 やめてくれ…。 ビルの隙間に滑り込む。辺りは暗くて、湿っていて、何より静かだった。 折原が、駆け寄ってきたのが、視界の端に映る。だが、僕はそれどころではなかった。 目を閉じる。 心を鎮めようと、深呼吸をしようと、一度、大きく息を吸い込んだ。 そのとき…。 確かに、懐かしい声が、聞こえた。 −−信じたい…。 その、『声』は。 僕は目を見開き、頭を抱え、しゃがみ込む。 一瞬、視界が大きく歪んだ。 僕はうずくまったまま、動かない。動けないのだ。ガタガタと身体を震わせ、突然襲ってきた、この『恐怖』が、僕のもとから立ち去るのをじっと待った。 『声』は、続く。 −−信じたいよ…彰彦のこと…でも…。 僕は、目を大きく開いた。頭を抱えていた手で、耳をしっかりと塞ぐ。 けれど、無駄だった。その『声』は、僕の頭の中に直接、響いてくるのだ…。 深い悲しみをはらんだその『声』は、呟いた。 −−…ごめんね。 限界、だった。 「ああああああぁぁぁぁっ!!」 大音量で、叫ぶ。折原は呆然として、僕の傍らに立ち尽くしていた。 遠くから、誰かが呼んだ救急車のサイレンが、こちらに近づいてくるのが聞こえ、そこで、僕の意識はフッツリと切れた。 あのあと、どうやって家まで帰ったのか、全く覚えていない。ひとりで戻ったのか、それとも折原が連れてきたのか、分からないが、気が付いたら僕は自分のアパートにいて、ベッドに腰掛けて、放心していた。 僕は、ぼんやりとした目で、ゆっくり部屋を見回した。 ベッドの向かいにある棚には、数え切れないほどの香水が…祥子のコレクションが整然と並んでいた。 その中の、ひとつに目が止まる。 ライトグリーンのジュースで満たされた、透明の縦長のガラス瓶。てっぺんには、メタル製のスプレーがついている、印象的なデザイン。 …エタニティだ。 かつて、祥子が愛して止まなかった、あの香水だ…。 何かに操られたように僕はゆっくり立ち上がり、のろのろとその棚へ近寄っていく。 棚から、エタニティを取り出し、それをじっと見つめる。 何故か、祥子を近くに感じたくて、仕方なかった。 『夢』でも、『幻』でも構わない。 幸せだった、あの頃の二人に、もう一度、戻れるのなら…。 香水のボトルを持ち直し、スプレーに指を添え構えた。その手が、ブルブルと震えていた。それが、何の震えなのか、考えないようにした。 僕は、思い切り、スプレーをしっかり押す。 だが…。 香水は、出なかった。 何回か押してみたが、まるで手応えがなく、エタニティは沈黙したままだった。 どうして…。 『夢』を見ることすら、許されないのか…? 僕は床に崩れ落ちた。 フローリングに顔を突っ伏して、呻き声を上げる。胸が、喉が、頭が、ズキズキと痛む。 エタニティを握る手に力を込めた。 低い呻き声は、いつしか咽び泣きに代わっていた。 前へ |次へ |
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