《MUMEI》

僕はゆっくりソファーへ近寄り、「祥子?」と呼びかけたが、返事はなかった。具合でも悪いのだろうか。
不安になった僕は、彼女の肩に優しく触れた。

「どうかした?何かあったの?」

囁くように尋ねると、彼女の肩がカタカタと小刻みに震え出した。

ただ事では無いことを、覚った。

「…祥子?」

もう一度呼びかけ、僕は彼女の頬に触れる。その、僕の手に暖かいモノが流れて伝った。
祥子の、涙だった。

彼女は、息を殺して泣いていた。

驚いている僕が、呆然と妻を見つめていると、彼女はゆっくりと顔を上げ、その悲痛な泣き顔が、微かな月明かりに照らし出された。

泣き濡れた妻を前に、僕は、言葉を無くす。

彼女は、微かに唇を動かした。
そうして、呟いたのだ。


「死んじゃった…」


僕は眉をひそめた。彼女がゆっくり瞬くと、涙が再び流れ落ちる。

彼女は続けた。

「成長してないんだって…もうダメだから、手術しましょうって、先生が…」

「手術…?」

何の?と尋ねる前に、祥子は言った。

「赤ちゃん、死んじゃったの…!」

後頭部を思い切り殴られたような衝撃を感じた。死んだ?赤ちゃんが?僕等の、新しい家族が…?

嘘だろ…?

その言葉を皮切りに、彼女は顔を覆って泣き出した。幼い子供のようにわんわんと無く妻の姿は、とても痛々しく、僕の胸を締め付けた。

彼女は嗚咽の合間から、必死に言葉を紡ぐ。

「今日、病院に行ったら、お医者さんが…そう、言って…私、頭が真っ白で…お腹痛くならなかったし、体調だって変じゃなかったのに…検診したら、それでもダメだって」

彼女は大きくしゃくり上げた。そして、顔を上げて、その虚ろな瞳を僕に向けた。
そうして、掠れた声で言った。

「ごめんなさい…赤ちゃん、守れなくて…彰彦、喜んでくれたのに…こんな、こんなことになって…」

彼女はもう一度、ゆるりと瞬き、呟く。

「ごめんね…」

僕は、返す言葉を見つけられなかった。ただ、泣き崩れる彼女の姿を見つめることしか、出来なかった…。


あのときの、祥子の取り乱した姿は、僕は一生忘れることが出来ないだろう。


その後、祥子は胎児を摘出する手術を受けた。

そのときの担当医の説明によると、2週間おきの検診で、一向に胎児の心音が確認出来ず、身体の育ちも良くなかった為、『流れた』と判断したそうだ。
祥子には異変がなかったと伝えると、自覚症状のない流産だということで、さほど珍しくないものだということだった。

手術は無事に終わり、その日のうちに、祥子は帰宅した。

家に帰った祥子は、抜け殻のようだった。
まるで、胎児と一緒に、感情まで全て取り出されてしまったように。
リビングのソファーに腰を埋めて、ただどこかを見つめていた。


そんな彼女を見ていられず、僕は彼女の横に座り、彼女の手を取った。

「きっと、運が悪かったんだ…それだけだよ」

僕は必死に言葉を探す。

「もちろん悔しいし、悲しい。何で俺達の赤ちゃんがって思うよ…けど…俺より、祥子の方が、もっと辛いよな?」

祥子はゆっくり僕の方へ顔を向けた。その瞳が見る見るうちに潤み出し、涙をいっぱいに湛える。
今にも泣き出しそうな彼女の顔を見つめながら、僕も目頭が熱くなる。

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