《MUMEI》
信じてたのに。
僕は、そっと彼女の身体を抱き寄せた。
彼女は抵抗しなかった。彼女の肩を優しく撫でて、僕は囁く。

「祥子が一番、辛かったよな。独りで先生の話聞いて、苦しかったよな。ごめん、傍に居てあげられなくて…」

彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ち、僕のシャツを濡らした。涙は止まらず、次から次へと流れていく。

僕は瞼を閉じた。

祥子の心の傷の深さを考えると、切なくて今にも泣きそうだった。

「ごめんな…何にも力になれなくて」

情けないけれど、声が震えてしまった。
その台詞に、祥子は僕の背中に腕をまわしてしがみつき、首を振った。

「私が、悪い…もっと、もっと気をつけていれば…もしかしたら」

言いかけた彼女の言葉を、僕は遮る。

「自分を責める必要はないよ。『もしかしたら』なんて考えなくていい。もう、いいんだ…祥子が無事なら」

僕は、彼女を力強く抱きしめる。
そして呟いた。

「祥子が、俺の傍にずっといてくれるなら、それで良いんだよ…」

つい、感情が高ぶって、僕は泣いてしまった。
それを彼女に覚られないように、僕は必死に息を殺した。祥子は僕の背中を、子供をあやすような仕種で優しく撫でて、僕の肩に額をあてた。

そして、低い声で、唄うように囁いたのだ。


−−ごめんね、と。



いつも、祥子はそう言っていた。
思い起こせば、いつでも彼女は「ごめんね」とよく呟いた。

彼女の口癖だったのかもしれない。

最初はそうでもなかったけれど、
だんだん、その言葉に引っ掛かるモノを感じるようになっていった。


きっと、これが、始まり。
僕等が夢見た《永遠》の、その終焉の…。




うずくまっていた僕は、ゆっくり起き上がった。しばらく手足を縮めていたせいで、腕や太股に痺れを感じた。泣きすぎた瞼は腫れ上がり、ヒリヒリと痛んだ。僕はよろめきながら、その場に立ち上がる。
そこでようやく、自分がエタニティのボトルをしっかり握りしめていたことを思い出した。

明るいグリーンのジュースが、光を鮮やかに反射させている。

僕はボトルを見つめ、そして、ボトルを持つ手を高く振りかざし、勢いよく、床に叩きつけた。

ガラスの瓶は、衝撃に耐え切れず、床の上で粉々に砕け散り、中に入っていた香水が強い匂いを放ちながら、汚らしく飛び散って床に広がっていく。

甘やかな、エタニティの…シラユリの香りは、懐かしい、妻の香りだった。

脳裏に、浮かぶ…。

突然現れた、祥子の幻は悲しげに眉を歪め、その瞳から大粒の涙を零す。


−−どうして…?

僕は、答えない。彼女は震える声で続ける。

−−私…分からない。彰彦の、気持ちはどこにあるの…?

そして、暗い抑揚で、言うのだ…。

−−信じて、たのに。

僕は冷めた目で、変わり果てたエタニティを見下ろしていた。


信じてた…?


−−嘘だ…。

僕は瞬く。嘘だ。彼女は、僕の気持ちを信じてはいなかった。いや、信じようともしなかった。

だから、あの日…。


僕は過去に想いを馳せる−−−。


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