《MUMEI》 流産したあとの祥子は、不自然なほど明るかった。わざと、そう振る舞っているのは明らかだった。 僕は、そんな彼女を目の当たりにしているのがとても辛かったけれど、どうしてあげることも出来なかった。彼女の空元気に、気づかないフリをするのが、僕にはやっとだった。 祥子は、空気に敏感だった。 彼女が、僕のぎこちなさを読み取るのは、早かった。それでも彼女は僕に何も言わず、ただ明るく振る舞った。 そうでもしなければ、赤ちゃんを失った苦しみに押し潰されてしまいそうだったのだろう。 僕等の、不自然な夫婦生活がしばらく続いた、ある日。 僕の職場に、中途採用の新スタッフが入店してきた。 柏原 リエという、女の子だった。 リエは取り分け美人というわけではないが、ファニーフェイスがとても愛らしい、個性のある今どきの、若い子だった。 僕は、リエの教育係に任命された。 それが、きっかけで、僕とリエは、急速に仲が深まっていった。もちろん、変な意味ではなく、純粋に仕事仲間としてのものだ。 対称的に…。 僕と祥子はすれ違いの生活が続いていた。 本社から祥子は異動通告を渡され、別の百貨店へ通うことになったのだ。 今までは同じ百貨店だったから、早番は何時に起きれば間に合うとか、遅番はだいたい何時くらいには家に帰れるとか、おおよその時刻が把握出来た。シフトが合えば、二人で待ち合わせて、一緒に帰ることも出来たのだ。 しかし、当たり前だが、勤務先が変われば、ライフスタイルも変容する。 朝起きる時間も違うし、帰ってくる時間も異なる。下手をしたら、同じ家に暮らしているのに、数日間、ろくに顔を合わせないなんてこともしばしばだった。 そして、セックスに関しても、僕等は行き違っていた。 夜、僕が祥子を求めて身体を寄せると、彼女は、僕の手を振り払うことが度々あった。 彼女の言い分は、「異動したばかりで疲れているから、そんな気になれない」とのこと。 だが、本当は別に理由があることは、僕は分かっていた。 きっと、怖かったのだ。 次に妊娠したとき、再び流れてしまったら、と。 祥子は、そのことに怯えていた。 彼女の気持ちも、その言い分も分かる。理解は出来る。 しかし、僕は、男なのだ。 そして祥子は僕の妻であり、女なのだ。 彼女が欲しくて、欲しくて、仕方なかった。 しかし、祥子は身体を赦さず、フラストレーションから独りよがりな自慰に耽った。 最中に、想い浮かべるのは、祥子以外にいなかった。 僕には、祥子だけだった。けれど、彼女は僕の気持ちを理解してはくれなかった。 日毎に、欲求は膨らんでいく…。 そして、 魔が、さしたのだ。 そんなタイミングで、リエが僕に愛の告白なんてしてくるから。突然キスをしてくるから。「今夜だけは」なんて、囁くから。 そのときのリエの目が、 僕と妻が初めて結ばれた夜…僕のアパートの前で待っていた、祥子のそれと、よく、似ていた。 我慢出来なかった。 . 前へ |次へ |
作品目次へ 感想掲示板へ 携帯小説検索(ランキング)へ 栞の一覧へ この小説は無銘文庫を利用して執筆されています。無銘文庫は誰でも作家になれる無料の携帯・スマートフォン小説サイトです! 新規作家登録する 無銘文庫 |