《MUMEI》

静まり返った部屋の中、祥子は言った。

「私の同僚が、見かけたって…あなたと女の子が腕組んで歩いてたよって、電話があってね」

僕は祥子を振り返ることも出来ず、ただ黙り込んだ。
違う。誤解だ。否定しなければと思ったが、混乱している僕にはかける言葉を見つけられなかった。
祥子は、ふぅ…と深いため息をついた。

「あなたが他の子を好きになっても、仕方ないと、思うわ。私、妻として、あなたを満足させていないもの…『あれ』から私達、子供も出来ないしね」

『あれ』というのは、おそらく流産のことだろう。
祥子は少し間を置いて、爽やかな声で、言った。

「あなたが私と別れたいなら、受け入れる覚悟はあるから…拒否する資格は、私にはない」


−−なんだって…!?

僕は慌てて起き上がり、祥子を振り返る。
祥子は、悲しそうに微笑んでいた。

「なに、言ってんの…?」

譫言のように呟くと、祥子は目を伏せた。僕は身体が震え出すのを感じた。
どうにかして、シラをきり通さなければ、僕等は終わってしまう。

「俺が…浮気してると、思ってるの…?」

尋ねる声が、震えてしまった。祥子は答えなかった。イエスということだ。僕は声を強めて言った。

「俺のこと、信じられないの?」

こんな問い掛けは、卑怯だと分かってはいた。けれど、それ以外、何も言えなかった。
祥子は、目を伏せたまま、「信じたい」と呟いた。

「信じたいよ…彰彦のこと」

「だったら…」

バカなこと言うなよ、と言い募る前に、祥子が「でも」と、強い口調で遮った。

「やっぱり私は、男のひとを信じられないのかもしれないわ…」

その台詞を聞いた瞬間。

僕の中で、何かがプツンと切れた。


「なに言ってんだよ!!」


物凄い大声で、祥子を怒鳴りつけた。完全な逆ギレだった。
彼女はビックリしたようで、大きく目を見開く。彼女の顔を見ても、僕は溢れ出す感情を抑えられなかった。

「何が『信じられないかも』だよ!俺、信じてって言ったじゃん!お前だって頷いただろ!ふざけんな!!」

こんなふうに祥子を怒鳴るのは初めてだった。見る見るうちに祥子の顔が歪み出す。理不尽なことを言っているのは、自覚していたけれど、僕はもう止められなかった。今まで抱いていた祥子への不満を、一気にぶちまける。

「別れる覚悟だって!?何だよ、それ!ヒロイン気取りか!?お前が、俺と別れたいんだろ!?そうならそうと、はっきり言えよ!」

祥子は、涙を流しはじめた。完璧に、僕の剣幕に怯えていた。僕は肩を上下に揺らしながら、祥子を睨みつけた。

重苦しい沈黙が、僕等を包み込んだ。

どのくらい、経っただろうか。
テレビの中のタレント達が、喧しい笑い声を上げた時、祥子はか細い声で、囁いた。


「…ごめんね」


そう呟くと、彼女はその場で泣き崩れた。僕は聞こえよがしに舌打ちして、自分の部屋に駆け込む。ベッドに横になり、タオルケットを頭から被った。何も考えたくなかった。

リビングから、テレビの明るい話し声を聞きながら、僕は固く目をつむった。





自殺現場を目撃した次の日、僕はいつも通り出勤した。
今日は折原は休みで、僕と店長と、男性スタッフの3人のシフトだった。

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