《MUMEI》

昼休憩に入り、僕は混雑した食堂で、トレーを持ったまま、空いている席をウロウロ探していると、すぐ近くから「あのぅ…」と、躊躇いがちな女の声が聞こえた。
僕が振り返ると、黒いスーツを着た女性がテーブルに座っていた。

どこかで、見たことがある。漠然とだが、それだけは分かった。
でも一体、どこで…?

考えていると、彼女はパッと表情を明るくした。

「この前、エタニティをお試しになった…」

彼女の言葉に、僕は思い出し、彼女の左胸のネームプレートを見る。そこには『矢代』と書かれてあった。
あの、フレグランスコーナーのスタッフだ。

僕が驚きながら、「あのときの…」と呟くと、矢代さんは「覚えてて下さいましたか」と嬉しそうに笑う。それから、向かいの席を指して、「良かったら…」と席をすすめてくれた。僕は彼女の好意に甘え、席に着く。

「百貨店にお勤めでいらっしゃったんですね」

席に座るなり、彼女は朗らかに言った。僕は曖昧に笑って頷き、「よく、俺のこと覚えてましたね」と言うと、矢代さんは悪戯っ子のような目をして答えた。

「イケメンは忘れませんから」

それから僕の左手の薬指に光るリングを見て、「既婚者で残念ですよ」とわざとらしくため息をついた。そんな矢代さんに、僕は笑う。

僕が矢代さんに、メンズアパレルショップで働いていることを伝えると、彼女は納得したように頷いた。

「道理でオシャレなひとだな、と思いました〜」

矢代さんの言葉に、僕は困ったように笑った。それから矢代さんは「そういえば!」と思い出したように声を上げ、微笑む。

「来月、エタニティからサマーフレグランスが限定発売するんですよ。良かったら、お試しにいらっしゃってください」

その台詞に、僕は視線を泳がせる。

「…エタニティは、もう使ってないんですよ」

僕の言葉に、矢代さんは「そうなんですか」と、首を傾げた。僕は頷く。

「昔、妻が使っていて…なんだか懐かしくって」

「良い香りですものね」

そこで僕は、妻のエタニティのスプレーが壊れたことを思い出し、矢代さんに尋ねてみた。
矢代さんは少し考え込むように伏し目がちになり、小さく唸った。

「もとからスプレーが出にくかったことは、ありましたか?」

「いえ…昔は普通に使ってたと思いますけど」

「それじゃ、ボトルをどこかにぶつけたり、衝撃を与えたことはありませんでした?」

尋ねられて、僕は思い付いた。
折原が手を滑らせて床に落としたことを。

「そういえばこの前、誤って床に落としちゃいました」

そう答えると、矢代さんは「それだ!」とパッと表情を変えた。

「ボトルは繊細ですからね。ちょっとしたことで壊れてしまうんですよ」

「大事にしてあげて下さい」と矢代さんは付け足し、ニッコリと笑った。

大事に。
ボトルを、ということだろうけれど、僕はその言葉に祥子のことを勝手に関連づけた。


僕は、祥子を大事にしなかった。
だから、エタニティも壊れてしまったんだ−−−。

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