《MUMEI》

やりきれない気持ちをひとり抱きしめて、僕は俯いた。矢代さんは自分の腕時計を見遣り、「私、そろそろ行きますね」と呟いた。

「今度は、ご自身の香りをお探しにいらして下さいね。私、お手伝いしますから」

明朗な声でそう言ってくれたので、僕は微笑む。

「矢代さんも、彼氏さんのプレゼント探してたら、是非ウチで」

そう返すと、一瞬、矢代さんの顔が強張った。僕は眉をひそめる。何か変なこと、言っただろうか。
不安になったが、矢代さんはすぐに表情を切り替えて、「機会があったら」と明るく答え、テーブルから立ち去った。

矢代さんの背中を見送ってから、僕はようやく定食を食べはじめた。



僕が休憩を終えてショップに戻ると、入れ代わりで店長が休憩に出た。

店はやはり空いていて、僕ともうひとりのスタッフの荒川は、手持ち無沙汰になり、陳列整理や在庫確認など、適当な仕事を始めた。
荒川は僕より4つ下で、3ヶ月前に他店舗から異動してきたのだった。


僕が店の奥のパソコンで、本社からの連絡メールを確認しているとき、不意に荒川が、僕に近寄って、こう言った。

「宮沢さんて、折原さんとデキてるって本当ですか?」

明け透けな台詞に、僕は顔をあげる。荒川は僕の目を睨みつけるように見つめていた。僕は顔をしかめた。

「何だよ、急に」

はぐらかそうとそう言ったが、荒川は続けた。

「みんな、噂してますよ。折原さんが宮沢さんの部屋に通ってるって」

「何言ってんの、噂ってバカらしいねェ」

鼻で笑って見せたが無駄だった。荒川は鋭い口調で「答えてください」と、ぴしゃりと言った。

「折原さんのこと、遊びなんでしょう?」

だんだんイライラしてきた。
僕は深いため息をつきながら、ノートパソコンの蓋をパタン…と閉じて「仮に…」と、呟いた。

「俺と折原がデキてたとして、オマエに関係あんの?」

僕の冷たい声に、荒川はたじろいだようだった。悔しそうに口をつぐみ、グッと拳を握りしめる。その様子を見て、僕はフッと柔らかく微笑み、後輩の肩をポンッと軽く叩く。

「それに、ここ売場でしょ。私語厳禁。店長がいつも言ってるでしょ。場所、弁えろ」

僕はパソコンから離れ、荒川の横をすり抜けると、店頭の方へ向かった。客の入りが良くなってきたようだ。マネキンのディスプレイを見つめて、一組のカップルが何やら囁き合っている。声掛けアプローチのチャンスだ。

客の方へ歩き出した僕の背中に、荒川の声が、流れてきた。


「浮気、初めてじゃないんでしょう?」


僕は、足を止めた。ゆっくり荒川を振り返る。荒川は物凄い目で僕を睨んでいた。軽蔑と嫌悪の混じった瞳だった。
荒川は低い声で言った。

「前、ここの店にいたスタッフから聞きました。3年くらい前に店の女の子に、宮沢さんが手を出したって。そのせいで、奥さんと上手くいかなくなって−−−」

「関係ないだろ」

僕はぴしゃりと遮った。それ以上言葉が続くのは堪えられなかった。僕は荒川を睨みつけて、低い声で言い捨てる。

「いい加減にしねぇと、俺、怒るよ?」

僕の剣幕に、荒川は少し怖じけづいた。僕はため息をついて、彼から目を逸らし、愛想笑いを顔に浮かべて、「いらっしゃいませ!」と、カップルに声をかけた。

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