《MUMEI》 笑顔で彼等にディスプレイの紹介をしながら、僕の頭には、先程の荒川の言葉が響いていた。 −−店の女の子に手を出して…。 −−…奥さんと上手くいかなくなって…。 −−…初めてじゃないんでしょう…? 商品を示す指が、震えた。 忘れたいのに、暗い過去は泥沼のように、重い枷のように、僕の記憶をがんじがらめに締め抑え、僕を捕らえて離さない。 脳裏に揺らめく、妻の姿。 今では泣き顔しか思い出せない…。 祥子…。 僕は−−−。 仕事を終えて地元駅に着いたら、改札口の精算窓口に、見覚えのある女がいた。 折原だった。 彼女は僕に気づくと、駆け寄ってきた。 「具合、大丈夫?」 僕は曖昧に笑い、頷いた。 彼女は、昨日、僕が凄く取り乱していたのを気にしていた。だから、心配で様子を見に来たのだと。 僕達は、近所にある行きつけの居酒屋に立ち寄った。 折原は僕の身体を気遣かって「早く部屋へ行こう」と言ってくれたのだが、僕はまっすぐ帰る気にならなかった。 荒川の言葉が胸にしこりとなって残って、どうにもすっきりしなかった。酒でも飲んで気分を紛らわせようと思ったのだ。 店に入り、いつものカウンターの席に二人並んで座ると、オヤジさんが何も言わず生ビールと茶まめを出してくれた。僕がいつも最初に頼むものだ。 僕はジョッキを手に取り、口に運んだ。ビールはよく冷えていて美味かった。折原は一気に半分くらい飲み、ジョッキをゴン!とテーブルに置く。それを見てたオヤジさんが彼女に、「良い飲みっぷりだね」と、明るく笑った。 それから酒はすすみ、僕と折原は気分が高揚して、オヤジさんやバイト君に絡みながら、バカみたいにはしゃいでいた。ただ、心のどこか、一点だけ、虚しさを感じながら。 「トイレ行ってくる」 折原はそう言って席を立った。僕がポケットからタバコを取り出し口にくわえ、火をともしたとき、目の前でオヤジさんがぽつんと呟いた。 「あのお姉ちゃん、アキちゃんの新しい彼女?」 僕は深く煙りを吸い込み、ゆっくり吐き出した。 「違うよ。ただの同僚」 素っ気なく答えると、オヤジさんは遠い目をして言った。 「もう、2年か…」 僕は固まる。 もう2年。それが何を指しているのか、分かった。 もう一度煙りを吸い、そして荒々しく吐き出しながら、「そうだね」と答える。 「今度、3回忌。早いよね」 人ごとのように言って退けると、オヤジさんは急に真面目な顔をした。 「お墓には、行ってあげたの?」 僕はタバコを吸いつづけ、軽く首を振った。オヤジさんは気を揉んだように、「それはダメだ」と続ける。 「ちゃんと行きなよ」 オヤジさんの言葉に、僕は笑う。 「向こうの家族が良い顔しないよ。それに俺が行ったところで、アイツは喜ばない」 「そういうのはね、アキちゃん…自分の為に行くんだよ」 僕は顔を背けた。オヤジさんは固い声で言う。 「線香を持って、彼女の好きだった花を持って、行きなよ」 僕は何も答えなかった。オヤジさんもそれ以上は何も言わなかった。そのうち、折原が「お待たせ〜」と呑気な声で席に戻ってきた。 前へ |次へ |
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