《MUMEI》
彼女の好きな花を
僕はタバコの火を灰皿で揉み消し、「帰るぞ」と呟いた。折原が不満そうな声を上げたが、僕は彼女を半眼で睨み、「終電、無くなるぞ」と冷たくあしらった。

僕達は会計を済ませて店を出た。その間、僕はオヤジさんの顔を一度も見なかった。見られなかった。僕の心の、暗い部分を見抜かれそうで。

僕が駄々をこねる折原を、無理やり駅まで連れていくと、彼女は悲しそうな目を僕に向けた。

「最近、冷たい」

ぽつんと呟いた彼女に、僕は「いつも通りだよ」と答えた。折原は耐え兼ねたように、言い募る。

「私、何かした?気に食わないことがあるなら、言ってよ。今、言って」

どこかで聞いた台詞だと、僕は独りごちた。僕は瞬き、冷静な声で答えた。

「気に食わないことなんか、ないよ」

「じゃあ、どうして?」

彼女はすぐさま切り返す。切羽詰まった表情だった。これではまるで痴話喧嘩だ。僕はやれやれと深いため息をつき、言った。

「もう、いいじゃん。お休み。気をつけて帰れよ」

質問に答えず、それだけ言うと僕は折原に背を向けた。
背中に、彼女の突き刺さるような視線を感じていた−−−。





翌日。

職場で折原と荒川と顔を合わせたが、二人とも何も無かったように振る舞っていた。二人の態度に、僕は内心ホッとした。このまま適当にやり過ごすことが出来るなら、その方がいい。あれこれ考えて、周りに気を遣うのは、疲れる。

僕も彼等と同じように、素知らぬふりで過ごした。



次の休み−−−。
とても、暑い日だった。黙っていても汗が流れてくるほど、空気がじんわりと熱を帯びていた。

僕は、埼玉の外れにある寺を訪ねた。
抱えていた、シラユリの花束から、芳しい香りが立ちのぼる。

寺には行かず、その手前に広かっている墓地に向かう。

桶に水を汲み、杓をその中に入れて、持ち上げた。ずっしりとしたその桶の重さは、水のせいだけでは無いような気がした。

フラフラと覚束ない足取りで向かった、その先には−−−。

厳めしい様子でそびえ立つ、墓石。

その正面に、『松原家之墓』と、彫られていた。

僕は墓石の前に桶を置き、ため息をついた。ここを訪れるのは、本当に久しぶりだった。

杓で水を掬い、墓石にかける。ゆっくりと表面を濡らし、流れ落ちていくその水を、じっと眺めた。隅々まで墓石を洗うと、次に花器に入っている、すっかり枯れた菊の花を取り除き、水を注ぐ。そして、持参したシラユリをその中にいけた。

最初見たときより、綺麗になった墓を見て、僕は泣きそうになった。未だに信じられなかった。この石の下に、アイツが眠っているなんて、想像も出来ない。

僕は墓石の前にひざまずき、線香に火をつけて、石の手前に置く。静かに合掌して目を伏せた。


これで、君は許してくれるのだろうか。

今までの、僕の愚かな行いを。






祥子を怒鳴ったあの日から、彼女は僕によそよそしくなった。それはあからさまにではなく、何となく、そう感じる程度のものだったが。

変に気を遣うのだ。

僕の顔色を伺って発言したり、僕が少しでも不機嫌そうな顔をすると、萎縮したように部屋の隅で小さくなった。

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