《MUMEI》

その空気が気まずく、自宅で過ごす時間が減り、その代わり、僕はリエの所に入り浸るようになった。

とは言っても、リエはただの『代替え品』に過ぎない。彼女を抱く度、思い浮かべるのは祥子のことばかりだった。

しかし、リエは、勘違いしていた。

自分が僕にとって、一番大切な存在なのだと。

枕元で彼女はいつも、「いつ奥さんと別れてくれるの?」と囁いた。もちろん、僕は祥子と離婚する気はない。

けれど、面倒なことは嫌だったから、僕は曖昧に返事を濁していた。


そんな中で、事件は、起こった。


その日、リエはとても機嫌が良かった。
僕が仕事を終えて、リエを訪ねると、いつものように彼女は笑顔で僕を迎え入れた。
いつもより豪勢な食事が並ぶテーブルに僕を座らせ、リエは始終ニコニコしているのだ。

何かいいことでもあったのか、と食事を食べながら尋ねると、リエは嬉しそうに微笑んだ。

「今日、奥さんの所に行ってきたの」

その無邪気な声に、僕は固まった。奥さん?祥子のことか?
確か彼女は今日、早番出勤の筈…。
混乱する僕を尻目に、彼女は喜々として言った。

「奥さんのお店に行ったのよ。私、直接話したかったし。そしたら、ちょうど休憩だからって、デパートの近くの喫茶店に二人で行ったんだ」

店に…?

「離婚してくださいって言ったら、奥さん、『はい、わかりました』て答えてくれたよ。良かったね」

はい、わかりました…?

リエは微笑む。

「緊張したけど、奥さん、優しくて。すごく、いいひとね。私達が真剣だって、分かってくれた。奥さんとは、もっと別のカタチで知り合いたかったなぁ〜」

「祥子は」

僕は声を出した。リエはキョトンとして、何?と可愛らしく首を傾げる。
僕はリエを見つめ返した。

「他に、何か言ってた…?」

僕の質問に、リエは少し考え込み、ゆっくり瞬く。

「『彰彦はそちらでは幸せそうですか?』って。『もちろんですよ』って答えたら、『そうですか』って」


そのとき、脳裏に浮かんだのは。

祥子の、泣き顔−−−。

『また』、男に裏切られたと啜り泣く、妻の姿…。

居ても立ってもいられなかった。

僕は慌ただしく立ち上がった。乱暴にかばんを手に取り、玄関へ向かう。そのあとを、リエが追いかけてくる。

「彰彦さんっ!!」

リエの呼ぶ声を無視して、僕は部屋から駆け出した。


今さら、遅いのかもしれない。
とうとう僕に、愛想を尽かしたのかも。
何を言っても、無駄なのかもしれない…。

けれど。

今、祥子と話をしなければ、僕は永遠に彼女を失ってしまう。

それだけは、絶対に嫌だった。


激しい後悔の念に苛まれながら、僕は夕闇の中を走り抜けた。





家に帰ると、祥子はソファーに腰掛け、テレビを見ていた。息を切らせてリビングに駆け込んできた僕を、ゆっくり振り返る。
そして、柔らかく微笑みながら、「おかえり」と言った。

「早かったのね。ごめんなさい…私、夕飯済ませちゃったの。簡単なものなら出来るけど、食べる?」

いつもと変わらない抑揚に、僕は打ちのめされた。それが、彼女の心の傷の深さを物語っているようで。

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