《MUMEI》

僕はやっとのことで首を振ると、祥子は「そう…」と呟き、再び視線をテレビに戻す。
僕はかばんをダイニングの椅子に置き、ソファーに近寄っていった。ちょうど彼女の背後−−ソファーの背もたれの所まで歩み寄ったとき、彼女はテレビを見つめたまま、呟いた。

「今日、女の子が来たわ…」

僕は瞬いた。祥子はこちらを見ないまま、続ける。

「可愛いひとね…素直で、無邪気で」

そこまで言って黙り込む。僕は返す言葉を見つけられなかった。
テレビから芸人の品のない笑い声が響いてくる。楽しげなその声は、この部屋の空気には不釣り合いで、ただ虚しく感じた。

祥子はゆっくり立ち上がり、僕を振り返った。悲しい微笑みだった。彼女は「コーヒー飲まない?インスタントだけど」と小さく囁き、僕の脇をすり抜けてキッチンへ向かった。ふわりとエタニティが微かに香る…僕は彼女を目で追った。

キッチンで手際良く準備をしながら、祥子は独り言のように言った。

「あの子を見たとき、なんだか昔の自分を思い出したの…昔、好きだったひとを、ひたすら追いかけてた自分を」

祥子はヤカンに水を入れ、コンロに置いた。

「あの子、昔の私にそっくりなのよ」

カチ…とガスの火をともす。コンロは、コォォォ…と小さな唸り声を上げた。祥子は食器棚からペアのマグカップを取り出し、作業台に静かに置く。そしてキャビネットから、インスタントコーヒーの瓶を手に取った。蓋を空け、備え付けのスプーンで、カップの中にコーヒーを掬い入れる。
流れるような一連の美しい仕種に、僕は目を奪われていた。

「自分の気持ちを表現することに必死で、周りが全然見えていない。自分だけで完結された世界の中、好きなひとの言葉や態度に一喜一憂してるの…それが一番、幸せなんだけどね」

−−でも…。

彼女は急に声を堅くした。カタン…とスプーンを台に静かに置く。

「周りのことが見えるようになったとき、どれだけ惨めな気持ちになるか…。私は、男のひとが、そんなふうに他の女の子を使ってバランスを取ることは、もう、分かってるけど、あの子はまだ、知らないわ」

祥子は僕の目を見つめて、瞬いた。そして、唇の先で、「だから…彰彦」と呟いた。


「お願い、あの子を傷つけないで」


僕は、彼女が何を言いたいのか、わからなかった。祥子は真剣な眼差しで僕を見つめたまま、言った。

「あの子に、私と同じ思いをさせないで。あんな思いをするのは、私だけで充分」

祥子はまた、瞬いた。


「終わりに、しましょう…私達」


僕は正面から祥子の姿を見た。
彼女のデコルテや肩や腕は、驚くほど、細かった。元々華奢であったが、こんなにも小さく、そしてこんなにも骨張っていなかったのに…。

少し見ないうちに、祥子はやつれていた。

それはきっと、ほかならぬ、僕のせいなのだ。

自分のことしか考えていなかった。僕の下らない欲望のために、祥子が犠牲になっていた。



今さらそれに気づいた僕は、なんて愚かなのだろう。



祥子はリエを選ぶように言ったが、僕はその申し出を受け入れることを拒んだ。僕にとって、一番大切なのは、祥子だ。リエではない。その気持ちは、昔から変わっていない。

僕は祥子が切り出した離婚話を一蹴し、リエとの別れを決意した。



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