《MUMEI》
妻の異変
僕が、祥子の異変に気がついたのは、リエと別れてから間もなくのこと。

最初は、本当に些細なことだった。

「あれ…?」

祥子が、突然、呟いた。
リビングでくつろいでいた僕が、彼女の方を見ると、祥子はただぼんやりと冷凍庫の中を覗き込んでいた。

「なに探してるの?」と尋ねてみると、祥子は振り返り、「アイス、知らない?」と聞いてきた。僕は首を振る。そもそもアイスが家にあったことすら知らなかった。

祥子はゆるりと瞬き、再び冷凍庫の中を見つめ、ぼんやりと言った。


−−買ってこなくちゃ…。


祥子がそんなにアイスを好きだったなんて、知らなかった。
だから、違和感があった。
けれどそのときは、あまり深く考えなかった。

祥子の様子がおかしいと、確信したのは、もう少しあとのこと。

確か、自宅のダイニングで、食事をしていたときだったと思う。

僕は、彼女の右手の甲−−中指の付け根辺り−−に、怪我をしているのを見つけた。何かで激しく擦ったような傷だった。

「どうしたの、その怪我…」

僕がぽつんと尋ねると、祥子は手の甲に目を遣り、「ああ…」と何か思い出したような声を上げた。

「ちょっと、壁で擦ったの」

祥子はふんわり笑い、そしてまた食事を始めた。その返事を、僕は鵜呑みにした。疑いすらしなかった。


その晩。


夜中、ふと目を覚ました僕は、隣のベッドに祥子がいないことに気づいた。トイレだろうか…そう簡単に考えた。

喉が渇いたので、僕は起きたついでに水を飲みに、キッチンへ向かった。

そのときは、真夜中で、部屋の明かりは全て消えている筈だった。

しかし、キッチンからぼんやりと、淡い光が漏れているのが、見えた。

照明を消し忘れたのだろうか…。

僕はゆっくりと、キッチンに近づく。
そして近づく度、微かな音が、聞こえるのだ…。

ガサゴソ…と何かをあさり、貪るような音。


間違いなく、誰かがキッチンにいる。

それは、妻に違いなかった。だって、この家には僕と妻以外に、他には誰もいないのだ。


こんな夜中に、暗いキッチンで、一体何をしているのだろう。

僕は静かにキッチンへ歩み寄る。だんだんと、状況が見えてきた。


祥子は、冷蔵庫の前に座っていた。冷蔵庫の扉を開けっ放しにして、その中をあさっているようだった。
キッチンから漏れていた明かりは、冷蔵庫のライト。そして、モノをあさるような音は、妻の仕業だった。

祥子は集中しているのか、僕がやって来たことに全く気づいていなかった。

僕はゆっくり、彼女の背後に忍び寄る…。


そして、言葉を無くした…。


祥子の目の前に、たくさんのゴミが積んであった。空になったアイスクリームのカップや、魚肉ソーセージの空袋、カマンベールチーズの空き箱…など、全て食べ物のゴミだった。

祥子は、手にヨーグルトを持ち、スプーンで掬い上げると、それを口の中にほうり込んでいた。物凄い勢いだった。普通の食べ方ではない。腹を空かせた獣か何かのようだった。

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