《MUMEI》

僕が、呆然と立ち尽くしていると、祥子はその視線に気づいたのか、突然スプーンを動かしていた手を止め、それからゆっくり、後ろへ振り返った。

祥子は、僕に虚ろな瞳を向け、目が合うと、口元をニタリ…と不気味に歪めた。

その表情は明らかにいつもの祥子のものではなく、まるで何かに取り憑かれたように思えた。

祥子は不気味に笑ったまま僕を見つめ、ヨーグルトを差し出し、そして、言うのだ。


「あなたも、食べる…?」


僕は、後退った。祥子はしばらく僕のことを不思議そうに見つめていたが、おもむろにヨーグルトの箱を床に置くと急に立ち上がって、僕の横をすり抜けてキッチンから出ていった。僕は祥子の後を追う。
彼女はトイレに入り、ドアを開けたまま便器に顔を近づけ、何を思ったのか、自分の口に勢いよく右手を突っ込んだ。

次の瞬間。

祥子は嘔吐した。先程口に入れたばかりの食べ物を、次から次へと吐いた。

僕は、呆然と、彼女の異様な姿を見つめていた。言葉が出て来なかった。

全て吐き出した彼女は、口の中から右手を抜く。その甲には、赤い擦り傷が出来ていた。彼女の手の傷は、このせいだったのだと、気づいた。

祥子はゆっくり立ち上がり、僕の方へ振り返る。
空虚な瞳に青ざめる僕を映して、柔らかく微笑んだ。
そして、不思議そうに、言った。


−−どうしたの?変な顔して…。



祥子は、精神を患い始めていた。



彼女を無理やり心療内科に連れていき、診察を受けさせると、担当医は僕を別室に呼んだ。彼は妻のカルテを覗き込みながら、淡々と告げた。

「奥さんは、うつ病ですね」

サラリと、まるで当然と言わんばかりの口調でそう言った。医者は、日々の肉体的疲労と、極度の精神的ストレスが原因だろうと理由づけ、こう続けた。

「心の風邪と呼ばれてますからね…長引いたり、急に治ったり、不思議なものなんですよ。気長に付き合っていきましょう…」

僕は医者の言葉に、頷き返すことしか出来なかった。


医者の指示の下で、祥子の通院治療が始まった。

治療といっても簡単なカウンセリングだけで、小一時間、医者と他愛ない話をするだけのものだった。

祥子は嫌がることなく治療を受けたが、家に帰ると毎日、大量の食べ物を腹に入れては、無理やり吐き出す行為を繰り返し、それを止めることはなかった。

彼女の右手の傷が酷くなるのを目の当たりにして、僕はいたたまれない気持ちになった。

祥子がこんなふうになってしまったのは、間違いなく僕のせいだったから。

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