《MUMEI》

そのうち、祥子は日によって気持ちの浮き沈みが激しくなり、仕事に支障をきたすようになった。

お客様や同僚とも、まともな会話もままならなくなり、じきに彼女は仕事を辞めた。半ば、クビになるような形で。
それは、祥子にとって、耐え難いストレスとなったようだ。

一日中、家にいるようになった祥子は、前にも増して、食べては吐く行為が酷くなっていった。

見兼ねた僕は、医者に度々祥子の様子を相談したが、彼はこう答えた。

「焦るのは良くありません。優しく見守ることが、最も大切なんです」

3回、同じことを言われた。それから僕は、祥子を医者の所へ連れていくことはしなかった。

医者が、何もしてくれないなら、僕が祥子を立ち直らせる。何とかしてみせる。

僕には、その責任があるから…。


僕は、祥子を外出が出来ないように家の中に閉じ込め、冷蔵庫に鍵を取り付けた。なるべく定時で仕事から帰るようにして、出来る限り、彼女を監視し続けた。

今までのように食べ物でストレスを発散出来なくなった祥子は情緒不安定になり、時折、僕に怒りをぶつけてくるようになった。子供のように大声で喚き散らし、部屋のありとあらゆるモノを壊し、そうして最後には部屋の片隅で泣きじゃくった。

祥子は一向に回復する兆しは見えなかったが、それでも、僕は信じていた。

いつの日か、彼女がこの悪夢から、目を覚ましてくれると。

昔のように、僕に微笑みかけてくれると。

そして、その日が訪れるまで、僕は待ち続けようと。

そう、思った。



きっと僕は、思い上がっていた。

祥子を救えるのは、世界中で僕しかいないのだと。

それが、間違いだったと気づくのは、その頃よりも、もう少しあとのこと−−−。








僕は、突き返されたシラユリの花束を握る手に、グッと力を込めた。花の幾本かは、無惨にも折れてしまっていた。

黙ったまま僕は、紀子に頭を下げ、くるりと身を翻すと、祥子の墓前から離れ始めた。
歩きはじめた僕の背中に、紀子の低い声が流れてきた。

「私、あんたを絶対、許さない…」

先程とは違い、とても静かな声音だった。その抑揚の中に、計り知れない憎しみが込められていることを感じた。
僕は、思わず足を止める。そして、ゆっくり振り返った。

紀子は、涙を流していた。
相変わらず、僕を睨み付けながら。

彼女は僕の目を見つめて、また繰り返した。

「絶対、許さないから」

僕は軽く目を伏せて、何も答えず、再び歩き出した。
ねっとりとした夏の風が、僕の身体にいつまでも纏わり付いていた−−−。




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