《MUMEI》 妻の心は、完全に壊れた。 暗い部屋の中で、ケタケタとひとり不気味な笑い声を上げていたかと思うと、突然、悲鳴を上げて、苦しそうに床を床を這いずり回ったり、そうかと思うと、在らぬ方を眺めながらブツブツと何やら呟いていたり、部屋の隅で肩を震わせて啜り泣いたりしていた。 リストカットも週間化した。 彼女の手首には傷が増えていった。その細い手首に生々しい傷痕が増える度、僕は目を逸らしていた。 祥子の姿を見ているのが、堪えられなかった。 痛ましくて、切なくて、どうしようもなかった。 そして、ある日。 仕事が休みだった僕は、夕食の準備をして、僕と祥子は一緒に食事を取った。 その日は彼女は落ち着いていて、一日中ぼんやりと椅子に座って過ごしていた。 会話をしないまま食事をしていると、祥子が食事に手を付けていないことに気づいた。 食べるように進めると、祥子は俯いたまま、静かに呟いた。 −−ごめんね…。 それは、彼女の口癖だった。昔から、よく呟いた、悲しくて、苦しくて、そして、僕が一番嫌っていた、言葉。 もう、堪えられなかった。 僕は箸を置いて、俯き頭を抱えた。 そしてついに、言ってはいけないことを、口にしてしまったのだ。 −−もう、疲れた…。 呟いてしまってから、僕はハッとして顔を上げた。祥子も顔を上げて僕を見つめていた。 祥子の顔は、やつれていた。 頬はげっそりと痩せこけ、目は落ち窪み影をさしていた。唇は乾燥していて、髪の毛には以前のような、艶や輝きはなかった。 変わり果てた祥子の姿に、胸をつかれた。 お互いの、空虚な視線が絡まり合い、沈黙が僕等を包んだ。 どのくらいそうしていたんだろう。 祥子は黙ったまま席を立ち、ゆっくりと部屋へ向かって、ダイニングから姿を消した。僕は、追いかけなければならなかった筈だった。けれど、そうしなかった。 疲れ切っていた。 何のフォローもせず、僕はひとり、食事を再開した。何の味もしなかった。 その数日後。 祥子は死んだ。 僕が仕事を終えて家に帰ると、祥子はバスルームで手首をかっ切って、倒れ込んでいた。 排水溝に、祥子の赤い血液が次々と流れ込んでいく様に、目を奪われた。 恐怖と混乱で、足が震えた。 僕はすぐに救急車を呼び、祥子は駆け付けた救急隊員により最寄の病院へ搬送された。 救急車の中、救急隊員に「非常に危険な状態だ」と告げられた。僕は祥子の青白い顔を見つめたまま、ただ震えていた。 前へ |次へ |
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