《MUMEI》 間もなく病院につき、祥子はICUに担ぎ込まれた。静かな深夜の病院の廊下を、ストレッチャーの車輪の音が、けたたましく鳴り響いていた。 目の前で扉は閉ざされ、僕は廊下にひとり、残された。 足が固まったように、動かなかった。 どのくらい、そこで立ち尽くしていただろう。 僕は担当医に呼ばれ、部屋に入った。 部屋の中は、白かった。 天井も床も壁紙も…何もかも白で統一された、無機質な部屋。 薄暗い、その部屋の中に、ぼんやりと白いパイプベッドが置かれていた。 その上に、誰かが横たえられている。 顔には、白い布が被せられていた。 呆然としている僕に、担当医は、淡々と呟いた。 「最善は尽くしましたが…」 それ以上、言葉は続かなかった。無反応の僕に、医者はため息をつき、ベッドに近寄った。 「残念です」 ぽつんと呟き、躊躇うことなく彼は布を剥がし取った。 その下から現れたのは。 「祥子…」 僕は、ベッドの上で眠っている妻に呼びかけた。いつの間にか、震えはなくなっていた。 妻は、安らかな表情を浮かべていた。 何かから解放されたような、すっきりとした、その顔が。 歪んだ。 そのあと、僕は警察の簡単な取り調べを受けた。 妻の左腕に、無数の傷痕があったことと、精神を患っていたことから、『うつ病による、発作的な自殺』として片付けられた。 警察から解放されて家に帰ったときには、もう夕方になっていた。 僕は携帯を取り出し、電話をかけた。 数回コールが繰り返されたあと、妻の母親が電話に出た。 妻の病気も、僕の浮気も、何も知らない彼女は僕の電話を喜び、「久しぶりね、どうしたの?」と尋ねてきた。 僕は、沈黙のあと、呟いた。 「祥子が、自殺しました」 葬儀はあっさりとしたものだった。 身内と、仲の良かった友人だけの、ひそやかなもので、あまりにあっさりとしていたから、僕は、まだ実感がわかなかった。 葬儀を済ませたあと、僕は妻の両親と紀子を最寄の駅に送った。僕達の間には、会話が一切なかった。全ての真相を知った両親は、とても疲れた顔をしていた。紀子は、ただ泣きじゃくっていた。 胸が張り裂けそうだった。 肩を落として並んで歩く、彼らの姿を見て、僕は取り返しのつかないことをしてしまったのだと痛感した。 祥子が自らの命を絶ったのは、ほかでもない僕のせいなのだ。 僕が彼女を苦しめて、追い詰め、そして見放したから、悲劇は生まれた。 −−−僕が、彼女を、殺した。 . 前へ |次へ |
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