《MUMEI》

波が怒ったように轟音を立てて、僕のつま先を濡らす。

おいで、おいでと手招くように、それを繰り返す。


僕は俯いた。


このまま波にのまれて、遠くへ行けば、辿り着けるのだろうか。


愛しい、彼女のもとへ。





不意に。


漂ってきた香りに、僕は顔を上げる。

潮の香りの奥から、
あの、懐かしい、甘い香り…。

エタニティだ。

慌てて僕は周りを見回した。




そして、見つけたのだ。




今の季節に不釣り合いな、黒いタートルニットに白のワークパンツ。肩下まで伸ばした柔らかい髪に浮かび上がる、みずみずしく白い肌。

印象的な美しい双眸に、微笑みを滲ませた、その、女性は−−。





紛れも無く、祥子だった。





初めて出会った頃のままの、美しい妻の姿に、僕は呆然とする。



これは、夢?
それとも幻なのか?



どちらでも、構わない。


それが祥子であるなら、夢でも、幻でも。



祥子は、僕が大好きだった、あの微笑みを浮かべて、微かに呟いた。


−−一緒に、いこう…。


僕は瞬いた。祥子はそれ以上何も言わず、微笑みながら海の方へゆっくり歩き出す。僕は立ち上がり、彼女の後ろを歩いた。
足に、濡れた砂が纏わり付く。波が僕の膝まで濡らしていく。

波打際までやって来たとき、祥子は突然足を止め、振り返った。

ふんわりと、エタニティの香りが僕の鼻孔をくすぐる。

祥子は僕の顔を見て、嬉しそうに笑い、言った。


−−私達の絆は、《永遠》なんでしょう?


…そうだよ。


僕は呟き、笑った。そして彼女の手を取り、海へ向かって走り出した。祥子ははしゃいだ声を上げ笑う。僕も彼女の顔を見て、一緒に笑った。

水が、腰を濡らし、肩を濡らし、頭を濡らしていく…。

いつの間にか無音になった海の中で、僕は祥子の肩を抱き寄せた。


もう、離れないよ。


《永遠》に…。



遠退く意識の中、僕が最期に目にした。


祥子は、ゆったりと微笑んだ。

あの、美しい、顔で…。






−FIN−

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